「侠」とは侠客の侠、やくざだが国家権力とは別に存在した。

      2021/07/07

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中国の春秋戦国時代には、大侠客「孟嘗君」「春申君」
「平原君」「信陵君」がいた。

徳川家康(1542~1616)は織田信長(1534~1582)と同盟関係にあった。
家康は武田信玄(1521~1573)を相手にして戦う日々が続いた。

織田信長が上洛できたのは家康の御蔭である。             25P
しかし家康は「武田に通じていた」という嫌疑を息子の信康にかけられ

切腹させられている。
自分の正妻、信康の母親である築山殿(家康と同年生まれ)も20歳で

殺害せざるをえなくなった。
家康は妻子を犠牲にしてまで信長に従った。

浅井長政(1545~1573)は信長と同盟を結んだが、裏切っている。
結果28歳で殺された。

家康の恩顧の部下である本田平八郎忠勝は「よい家来、よい武士は     28P
主人のことを信用している。主人が過ちをしたら仕方ないから主人と

城を枕に死んでやる。それが家来というものだ。」と言った。
中国の武将も主人に対しては命がけである。

極東軍事裁判で判事が東条英機に「お前たちは天皇の命令に従って    39P
戦争を起こしたのか」と訊いた。

東条は「そんなことはありません。天皇は戦争をしろとは一言も
言ってない。天皇陛下はこの戦争とは関りがありません」と答えた。

すると判事が「ではお前たちは天皇の言うことを聞かない存在なのか」
と確認すると、東条は「とんでもない、我々は天皇に忠実な臣である。

天皇の意思に逆らうようなことはいたしません」と断言した。
うまいこと言い逃れたが、結局は絞首刑になった。

日本では不思議なことに明治時代、世襲というものがなかった。       45P
伊藤博文、大久保利通、大隈重信戦争前は一人もいない。

終戦後はひどいものである。
世襲どころか三代、四代続けて国会議員やって親分のような存在がいる。

平将門(940年死去)は今でも神田明神に祀られている。            185P
将門以来252年後に鎌倉幕府が関東に開闢され、663年後に江戸幕府が開かれた。

関東の人間は政治的に関西京都と馴染まない。
格段に「奥羽地方(陸奥と出羽)」のほうが近い存在である。

徳川家康も関八州だけでなく奥羽地方の価値に目をつけた。
実際に江戸時代に奥羽地方の開発は進んだ。

江戸初期、陸奥国は180万石くらいの石高であった。           191P
それが幕末になると280万石になり、出羽国は30数万石が150万石になった。

「考える日本史」本郷和人著河出新書引用

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