1990年以降の日本経済の低迷は金融政策運営の失敗による。
2021/06/30

2012年から日銀は新たな金融緩和政策を行い、消費者物価上昇を
2%にすることを目標にしているが、10年たった現在でも目標に
到達はしていない。
日銀のゼロ金利政策は回避すべき半面教師と欧米で認識され
そうした状況に陥ることを「日本化」と呼ばれるようになった。 4P
銀行のビジネスモデルの根幹を支える国内預金利ザヤは、日銀が 20P
金融引き締めから緩和に転じた1991年時点で2.15%(大手行)あった。
それが政策金利をゼロ近辺まで下げた1995年には1.59%まで低下し
直近では0.8%台まで下がっている。
1990年代半ばまでの利下げは景気浮揚のためとされたが、資産価格の
引き上げも狙っていた。
巨額の潜在不良債権を抱える銀行の支援でもあった。 21P
それが90年代末にはゼロ金利は銀行救済手段となった。
銀行は危機を脱するが、今度はゼロ金利が経営を圧迫するようになった。
日本においては実情、銀行も証券会社も過去のモデルが通用しなくなっている。
日本も商業銀行ではなく投資銀行になるべきで、証券市場は必要であるが
証券会社のリテール営業は安定経営ができず、ディーリングなどの自己バイ
に転嫁する時代がやってきていると思われる。
1985年のプラザ合意以降、1989年4月1日に消費税が導入された。 31P
その二カ月後5月31日に公定歩合が2.5%から0.75%引き上げられた。 32P
しかし日経平均はそれでも上昇した、土地も年65%上がった。
不思議なことは消費者物価が上がらなかったことだ。
12月24日に公定歩合が0.5%引き上げられ3.75%になった。 42P
そして1990年3月に1%引き上げ4.75%へ、8月末に5.5%になった。
これを行った日銀総裁三重野康は「平成の鬼平」と呼ばれた。
バブル潰しをやり過ぎたのである。
日経平均は1989年12月28日に天井を打ったが、土地の価格は
いまだに上昇し、下げ出したのは大蔵省の不動産総量規制が行われた秋口である。44P
バブル潰しのやり過ぎは銀行融資の伸びを逆回転させ、土地の価格、株価を暴落
させた。
1991年7月に日銀は公定歩合を0.5%引き下げに追い込まれる。 45P
すでに銀行のバランスシートは傷みはじめていた。 47P
1994年に預金金利が完全自由化された。
7月7日には金融緩和政策の失敗で円相場が高騰し1ドル80円を突破した。 61P
あわせて無担保コール翌日物金利は1%を割り込み、0.8%台で推移した。
ゼロ金利時代の幕開けである。
1997年6月18日改正日銀法が公布された。
同じ年の11月3日に三洋証券が会社更生法の適用を申請した。 73P
11月17日には北海道拓殖銀行が経営破綻に追い込まれた。 76P
11月24日には山一証券が自主廃業した。
1990代以降のグローバル化時代の経済のもとでは、旧来の金融政策は通用しない
ことに歴代の日銀総裁、財務省は気がついていないのである。
「日本銀行失策の本質」太田康夫著日本経済新聞社引用