1899年に近代化された東京の水道は大震災危機を乗りこえた。

      2021/06/29

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家康が江戸に入ったのは天正18年(1590)8月1日で旧領地から家臣や  16P
町人を江戸へ移したが、生活するための土地が足りなかった。

日比谷入り江などの埋立てが行われ、丸の内の葦原も埋め立てて
このへんの漁村村も町家らしくなった。

このとき経営された市街としては武家の方では、今の千代田区内の
代官町辺が役人屋敷、番町辺が蕃士の屋敷地として開かれ町人の

方では日本橋の本町辺が町家として開かれた。
埋め立て地は井戸が塩気が強く、水道を通すことが急務となっていた。

家康は家臣大久保藤五郎に命じて上水を見立てさせた。
藤五郎は小石川の上水を見立てて、その水を江戸の市外に通じさせた。

この上水は小石川上水と呼ばれ、木樋を埋めて水を引いたものではなく
掘割を掘って流れを通したもので、流路も短く流量も少ないものだが

天正年中に完成した江戸における最初の上水道であった。
これがしだいに拡張され、本町辺一帯を中心にしだいに給水範囲を

拡大し、のちの神田上水に発展していった。             17P
神田山の切り崩しが行われたのは、慶長8年(1603)3月からで家康が

征夷大将軍に任命され、江戸に幕府が開かれた年である。
このとき幕府は、城の東南の方、芝よりの入り江を埋め立てて三十余町

四方という広大な陸地にして、町づくりをした。
こうしてできた市街は、日本橋、京橋から芝口にわたる一帯になった。

まっさきに起きたことは飲料水の不足である。
井の頭の池の水を引くようになったのは、大久保藤五郎が武州玉川辺の

百姓内田六次郎の申し出を採用し、水質が佳良なことを知って喜び
六次郎に命じて水路を開通させたとも言われる。

神田上水は寛永6年(1629)ごろまでには完成した。
神田上水は江戸東北部に給水していたが、西南部は赤坂の溜池を利用した。

江戸は市街の発展につれていろいろな都市問題をかかえるようになった。  27P
なかでも最も重要だったのは火災の頻発で、為政者はこの対策に悩んだ。

玉川上水が完成した翌年の承応4年(1655)3月に幕府は江戸の住民に対して
消防水利として、火の用心井戸を掘るお触れを出している。

明暦年間(1655~1658)は火事の多い年であった。
被害の大きかったのは明暦3年1月18日の大火で俗に「振り袖火事」と呼ばれた。

この火事で江戸の全市街の約三分の二が焼失。                28P
10万人以上の死者がでた。

「江戸・東京水道史」堀越正雄著講談社学術文庫引用

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