近代科学は「数学」と「実験」によって裏づけされている。

      2021/05/28

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実験で歴史的に有名なものはガリレイと「ピサの斜塔」だろう。  268P
実験というものは、目で見てするものです。            269P

感覚でとらえられるこの世の現象に惑わされてはいけない。
現象は移ろいやすい影のようなもので、感覚は錯覚もおこす。

そんなものを観察してもこの世の秩序はわからない。
神の言葉のほうが正しいとされてしまう。

人間の目や耳が、聖書より正しいという保証はどこにもない。
これがルネサンス以前の学者(聖職者)のあいだでは正論であった。

実験により、この世の「法」が見いだせるという発想は当時、存在
しなかった。

この時代までは、神の言葉により、この世の現象は繰返し現れる  270P
だけであるという「演繹法」の考え方が支配していた。

それにたいして、この世の現象の観察をつみかさねて真理に至るという
「帰納法」の考え方が登場するのです。

ここから近代科学が始まります。
ルネサンスから17世紀のヨーロッパは宗教戦争と革命の時代に入った。

戦争で火薬が使われ、羅針盤を使ったグローバル化で富の偏在化が起き
印刷によってそれぞれの言語の聖書が広まると、30年戦争が勃発する。

この時代は、人間の理性の幕開けであり技術革新が成されました。
近代思想の根幹は近代理性という考え方が生れます。

「われ思う、ゆえにわれあり」というデカルトが科学とともに現れた。   272P
デカルトはフランスで生れますが、彼が生きたのは30年戦争の時代で

知識人が迫害にあったり、亡命したりする時代であった。
デカルトは自分だけではなく、この世にあるすべてが、それそのものでは

存在を確かにはできないと考えた。
「私」というものが確かにある、という感覚を得るとはいつ何時なのか。

「私はある」と感じられるのは「あなたと一緒にいるとき」という自己を
超えたものとつながっているときです。

ここからがヨーロッパ的な世界になるのだが、つながる相手が永遠に
変わらないもの、それ自体が確かな「実在」であればよい。

つまり「神」とつながることなのです。
私というものが存在する以上、支える神が実在しなければならない。

デカルト流にいうと、感覚でつかめるものはあてにならない。     275P
「事物のうちには、ただ一つの活動力のみがある。すなわち(神の)愛であり

慈悲であり、調和である」と書いた。
ここまでは中世と変わらない。

デカルトが見出したものは「数学」である。
文章は感覚であるが、数式や幾何学の解釈は唯一無二である。

カトリックとは「普遍」という意味だが、この世にあるカトリック教会や     276P
この世の言語であるラテン語で書かれた聖書より、数式のほうがはるかに普遍です。

理論物理学者のホーキング博士も、自分は人格神は信じないが、宇宙には普遍的な
法則があることを信じると言った。

「社会を変えるには」小熊英二著講談社現代新書引用

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