日本列島の東と西に「丸い江戸と四角い京都」が存在した。

      2021/02/06

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1590年、わずか百戸くらいの家しかなかった丸い敷地の中の
四角い江戸城に入った徳川家康は比叡山の天台宗の僧天海に

江戸の都市計画をまかせた。
天海は福島で生れた。

天海は曼荼羅には興味を持たなかったが、江戸城を中心に
自然に「うずまく」ように整備した。

うずまく「八百八町」の出現である。
現在の東京は明治時代にパリにならって皇居を中心に時計回りに作られた。

パリは京都の姉妹都市であり、碁盤の目に作られたニューヨークは
東京の姉妹都市である。

多摩陵にある昭和天皇の墓は上円下方墳であるが「前方後円墳」の
名づけの親は寛政の三奇人である蒲生君平である。

日本のわびさび幽玄の極致を味わうのが「茶の湯」である。
千利休の弟子が織田信長の弟織田有楽で、家康の時代に今の有楽町に

住んでいたが、茶室の数寄屋造りが今でも数寄屋橋として残っている。
千利休が開いたのが「裏千家と表千家」である。

茶室の畳のかたちや敷き方も幾何学的に決められている。
ふつう一畳、半畳、台目(だいめ一畳の四分の三)を組み合わせる。

茶室は表千家では三畳台目の「不審庵」を、裏千家では一畳台目の
「今日庵」が有名である。

「茶の本」を書いた岡倉天心と原三渓は親友であった。
岡倉天心は茶道とは精神の幾何学であるといっている。

家康は寅年(1542)の生れで二代目秀忠は卯年(1579)三代目家光は
辰年(1604)に生れた。

家綱は巳年(1641)だが、綱吉は戌年(1646)であったため生物憐みの令
などという決まりを作ってしまった。

十二支十干の60年では、1966年が「丙午」であった。
つぎは2026年である。

伝統的にインドでは「六」西洋は「七」日本は「八」中国は「九」が
神聖な数字となる。

「江戸のかたちを歩く」八百八町に秘められた〇△□とは?宮崎興二著
祥伝社黄金文庫参照

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