「生き延びるための力」とは弱さを齎す禍を最小化共生する。

      2021/01/14

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新たな学びを阻止する無知や弱さとは「居つき」であり
これを解除することで「守るべき私」を廃棄する。

それは修行である。
それは瞑想の実践とも通ずる。

修行というものは、エクササイズの開始時点で採用された
度量衡では計測できない種類の能力が身につくプロセスである。

「鍛錬」や「強化」「向上」とは違うものです。
修行には「相手」がいません。

現代における「真剣勝負の場」とは、日々生業を立てている
「現場」のことである。

「活計(たずき)の道」こそは、素人にとって真剣勝負の場である。
そこで私たちの身に備わった生きる知恵と力を開花させねばならない。

敵が存在することを、沢庵和尚は「住地煩悩」と呼んだ。
斬りつける刀にとらえられ、それがどういうコースを取るか、どこに

打ちこんで来るのか、どうかわせばよいのか、そういったことを考慮
するのは、刀に「居つく」ことである。住地煩悩である。

これに対して、完全な自由を成就した状態は「石火之機」と呼ばれる。
「石火之機」とは「間髪容れず」ということである。

武道の目的は「無敵の探求」である。
「敵」とは広義には心身のパフォーマンスを低下させるすべてのものを言う。

本来「無敵」という状態は存在しない。
「敵」という語を定義するときに、別の語でいうと「私」である。

「私」とは誰のことか。
中島敦の「名人伝」に出てくる、弓の名人「紀昌」の世界である。

武道の世界では「瞑想」は「足踏」「目付」「足捌き」「手捌き」
といった技術をいう。

「待つ」構えは、原理的に「後手に回る」迅速かつ的確に反応したとしても
そもそも「反応する」ということが「遅れる」ということを前提にしている。

「機」とは、複数のものがある動作を協働的に達成するが、そのときに先じて
運動を指示したり、命令したりする主体がどこにも存在しないことを言う。

合気道の植芝盛平先生は機を喩えて「太刀を振り下ろしたときに、相手が
刃の下に首を差し出す」ようなことと言った。

運動速度をどれほど高めても、時間の先後を論じている限り、このような
同期は達成できない。

「修行論」内田樹著 光文社新書参照

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