パレスチナ問題は第一次世界大戦処理に遠因し英仏が起こした。

      2020/12/29

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1エゴン・シーレ

ユダヤ人問題に端を発するパレスチナ問題の根源を歴史的に
さかのぼって、核心を探ることが必要である。

世界史の問題として考えるためになぜパレスチナ問題が解決
できないのか、それはユダヤ人問題である。

パレスチナ問題はヨーロッパ・キリスト教社会が生みだした
ユダヤ人問題の帰結として生じたものである。

イスラエルとパレスチナ人の対立は、考古学や聖書学などの
学知をも動員しつつ、古代の物語も対立の固定化として登場し

対立の根底に横たわる人為的な構図を理解しない限り、解決
への処方箋は見えてこない。

アラブ人はローマ時代の呼称にしたがってアラビア語で「フィラ
スティーン(ペリシテ人の地)」と呼びました。

ユダヤ教徒はヘブライ語の聖書の伝統にしたがって「エレツ・
イスラエル(イスラエルの地)」と呼んでいます。

歴史学の父ヘロドトスによればパレスチナとは現在のシリアの
沿海地であるレバノンとエジプトの間の地域を漠然と指している。

11世紀にカトリック教会と対立して分離独立したのが「東方正教会」
です。

十字軍は西ヨーロッパのカトリック教徒の国々が11世紀末から13世紀末まで
エルサレム奪還を名目として断続的に行ったイスラム世界への軍事遠征です。

イスラム側から見れば、カトリック教徒の一方的な侵略戦争といえます。
最終的には1291年に地中海の要塞アッカ―がムスリムの手に落ちて滅亡しました。

オスマン帝国(1299~1922年)はイスラム史における最後の帝国と
みなされています。

オスマン帝国は16世紀前半に絶頂期に達します。
その象徴的な事件がオスマン朝スルタンのスレイマン一世(在位1520~66年)

による1529年の第一次ウィーンの包囲でした。
オスマン朝はすでにバルカンはもとより、ハンガリーの全土を支配下に置き

その結果カフェを含むトルコ・コーヒー、シャーベットなどの飲食文化
トルコ絨毯や軍楽隊などの音楽文化(モーツァルトのトルコ行進曲は有名)

などの文物は多くのものがありました。
しかし1699年に締結されたカルロヴィッツ条約で領土を失い凋落します。

そして200年後の第一次世界大戦により国土は分割され滅亡します。
このとき1916年に英仏が結んだ秘密協定が「サイクス・ピコ密約」です。

「世界史の中のパレスチナ問題」臼杵陽著 講談社現代新書参照

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