物質と光が放たれた方にだけ進む時間と意識は分けられない。

      2020/11/07

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重力量子とは重力波の飛沫「重力のゆらぎ」である。
インド自然学ということになる。

道元は座れといふ。人間的連続の切断に於ける表現停止だ。
それは絶体の場を示唆する。不立文字の無位の相として混沌に

背骨をまっすぐにたてることは、一つの天体たることである。
生とは強引にふりむいた「時」の意識である。

禅林では「道」という字を「道う」(言う)とつかって、その
公案の多くに「速やかに道え」と迫る箇所がある。

「禅とは何か、さあ速く道え」と迫る。
そこで「禅とは」とつまったらおしまいだ。

横を向かれるか、一喝が落とされる。
「眼横鼻直」は禅にはしばしば登場する。当然を当然として悟る公案である。

「正法眼蔵」に山水経がある。
冒頭に「而今の山水は古仏の現成なり」と記される。

而今の山水は而今という山水であり、而今である山水である。而今と山水は
分かれない。

そこを有時ともさししめすことができる。
而今の時と山水の有は、それこそ未萌だったのである。

その未萌にしか自己のわきまえる場所がないと、道元は投げつける。
それは強引にふりむいた時の意識であったのか。

稲垣足穂の「神・現代・救い」の一節。
「神は人間が勝手につくったもの、されど神をつくらざるをえなかった人間の

経験はこれは人間が勝手に作ったものでない。故に神をつくらざるをえなかった
清く美しき宇宙的経験をもって神と名付づくるのである」と。

なんという傲慢と空白さ、こんなことでは何の力もない。
仲基は、もそ思想を語るならば、「せめて前史の思想的成果に何者かを加え

ようとする魂の努力だけを認めたい」
これがいわゆる「加上」の理論というものだ。

「ウィルヘルムマイスター」はゲーテの作品のなかでも、最大の確立的進行を
あつかった傑作である。

ゲーテ生誕200年後に、ハイゼンベルクがこんなふうに書いた。
「そろそろ科学のほうがゲーテの親和的秩序をとりいれることになる」

ヘーゲルの「自然哲学」の冒頭は時空論である。
時空論とはいえ、ヘーゲルでは空間が先行して、そののちに時間がくりだされる。

空間は自然の自己疎外であり、時間はその空間がみずからを自己否定して生れた。
ということは、空間と時間の相互性は「運動する物質」の質的有限性をみて

「重力」をほうりこんでみたのであったが、このような類推が妥当であるかどうか
まったく保証のかぎりではなくなったのだ。

ノヴァーリスは「夜の賛歌」で以下のように綴っている。
「光の時間は測ることができる。だが夜の領域は時間と空間を超越している」

意志とは世界の内的な本質そのものであり、その核心であり、カントの物自体
にもあたっているものだ。

したがって意志は現象をもち、その現象はショーペンハウエルいうところの
根拠律にもとづくが、意志そのものには根拠律はとどかない。

こうして意志とは、それ自体においては原因も動機ももたないものになっている。
これは無に近い意志なのである。

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