ホンダ創業者本田宗一郎1907年、ソニー井深大1908年生れ。

      2020/10/02

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本田宗一郎さんは井深さんの一年兄貴である。
宗一郎さんは井深さんより、6年はやく亡くなった。

世界のホンダへ飛躍するけっかけになったのが、1954年の3月
イギリス「マン島レース出場宣言」であった。

そして初出場で惨敗する。
勝つために本田宗一郎が考えたのは、「エンジンの回転数」である。

当時のオートバイ技術の常識からかけ離れた10000回転である。
たいへんな苦労をして高速回転エンジンをつくり上げた。

そしてマン島のレースを制覇した。
日本はオートバイ王国になった。

四輪車を始めるときには、低公害エンジンCVCCをつくり世界を
あっと言わせた。

誰もが基準をクリアするのは無理と考えた「マスキー法」(1970年)
規準をクリアしたエンジンである。

ガソリンを完全燃焼させるエンジンをつくった。(1972年)
1989年10月に本田宗一郎はアメリカの自動車殿堂に入る栄誉を手にした。

ホンダのメイン銀行はその当時の三菱銀行です。
本田宗一郎は銀行の会合だけ背広を着て出た。

普段は真っ白の作業服である。
彼は生前よく「人間は機械じゃない。恋愛したことのある人とない人じゃ

人の情の面がまるで違う。芸術でも技術でも、いい仕事をするには、女の
ことがわかっていないとだめだ」と言っていた。

1962年に経済産業省の次官佐橋滋が自動車の「特振法」を出すといいだし
本田宗一郎は今のうちに実績をつくらないと、永久に四輪車を出せなく

なると困りはてた。
そこで急遽モデルを製造した。

ソニーの場合はテレビである。
世界では「シャドウマスク方式」が主流であった。

ソニーは採用しなかった。
「クロマトロン方式」を採用し、失敗した。

この失敗が「トリニトロン方式」に生かされている。
技術力の問題であった。

本田宗一郎は道徳観について「役人は道徳教育が好きだが、聖人君子を目的に
道徳教育をやるなら反対だ。そんな教育されても、そんな人間になる可能性は

ないし、そんな意志もないから、いくら頭からたたきこまれても初めから耳を
傾けない。折角の人生を味気なく過ごすことは御免である」と全面否定。

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