徳川家康は三河岡崎の弱小大名であった松平家に生れた。

      2020/09/14

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1549年家康の父松平広忠の死により、岡崎松平家は駿河今川家の
占領下におかれた。

家康は今川家の人質になる。
1560年の桶狭間の戦いで家康は事実上独立を果たし1570年に

浜松に居城を移した。
1582年に駿河、甲斐、信濃を手に入れ1586年に駿府城に移転した。

1590年、豊臣秀吉の命で江戸城に居城を移した。
1600年関ヶ原の合戦に勝利し、事実上の天下人となる。

関東入国時の家康の家臣団の石高は以下のとおり。
井伊直政30歳 12万石(今川旧臣)
本多忠勝43歳 10万石(譜代)
榊原康政43歳 10万石(譜代)
大久保忠世59歳 4万5000石(譜代)

徳川四天王という呼び方がある。
酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政である。

本能寺の変後、家康が五か国領有する大大名になる頃には、徳川家臣団
内部の価値観と、外部から見た価値観にギャップが生れた。

本多忠勝の娘(小松姫といわれる)が真田信幸に嫁いだことは有名である
が、これは本多忠勝のネームバリューが高くなったことを示している。

家康には二人の正室、少なくとも十七人の側室がおり、十一男五女を
もうけた。

最初の正室、築山殿は今川家重臣の娘で、義元の姪といわれる。
1557年頃に結婚し、長男岡崎三郎信康を生んだが1579年に築山殿を家臣に

殺害させ、さらに翌九月に信康を自害に追い込んだ。
家康はこれに懲りたのか継室を迎えなかったが。1584年の小牧長久手の合戦

の後、秀吉は家康を臣従させるため1586年4月に異父妹あさひ姫(1543~90)
を43歳で継室として押し付けた。

四年後にあさひ姫は死去、以降家康は正室を設けなかった。
側室だけならば、問題は多少単純である。

家康は「未亡人好み」で知られている。
家康の側室は家格が高くない。

秀忠の母は「西郷の局」で三河の国衆であった。
十男十一男の母「蔭山殿」の父親は北条旧臣の城主である。

こう見ていくと家康から疎まれた次男結城秀康、六男松平忠輝は、母親の
身分が賤しいということが見えてくる。

家康の三男、徳川武蔵守秀忠は1579年4月に浜松で生れた。
母は西郷局、秀吉から偏諱を与えられ「秀」がついている。

1605年に二代将軍となった。
秀忠の妻は淀殿の妹「江」である。

徳川を名乗る家康の子孫はすべて、十男「紀伊徳川頼宜」十一男「水戸
徳川頼房」の末裔である。

いずれも家康が還暦を過ぎてから生まれた子供である。
家康は精力絶倫であったが、大名の一番の能力である。

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