文化事業をやったのは「クラレ」の大原孫三郎とサントリーだ。

      2020/09/13

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300万人の命が失われ焦土と化した日本が、奇跡の復興へ
歩みだす。

ウィスキーの味を守るため上場を拒否した「サントリー」
という企業は、いかにして自由闊達な文化を育てあげること

ができたのか。
それは、経営者の度量と先見性から生まれる。

そこには開高健を拾い上げた佐治敬三がいた。
この二人は骨肉のつきあいをする。

サントリーの祖、鳥井信治郎という人物は破格のスケールを
持った起業家であった。

信治郎は明治十二年(1879)1月30日、両替商の鳥井忠兵衛の
次男として大阪に生を受けた。

鳥井家は代々、津国屋を屋号としてきた商人の家柄である。
忠兵衛は明治23年(1890)に米穀商に転業した。

信治郎は明治25年(1892)13歳のときに丁稚奉公に出された。
奉公先は道修町にある小西儀助という薬種問屋であった。

武田長兵衛商店(武田薬品工業)田辺五兵衛商店(田辺三菱製薬)
塩野義義三郎商店(塩野義製薬)が道修町の御三家であった。

「アロンアルフア」は小西儀助商店の木工ボンドの商品で、現在
東証一部に上場しているコニシ株式会社である。

薬商売は原価の九倍の儲けがある。
現在まで生き残った秘密はそこにある。

「がしんたれ」とは、餓死するほかない役立たずという意味の
船場言葉であり、最大の恥辱であるなげかけである。

小西儀助商店では、信次郎が丁稚に入る4年前(明治21年)から
「赤門印葡萄酒」という銘柄のワインを売りだしていたほかビール

も製造し「朝日麦酒」の名前で販売し、これを引き継いだのが
現在の「アサヒビール」である。

赤玉ポートワインが発売されたのは1907年のことである。
大正八年(1919)大阪市東区住吉町で鳥井敬三のちの佐治敬三は生れた。

鳥井信治郎40歳のときであり、敬三は次男、長男は吉太郎。
この年6月にはベルサイユ条約が調印され、7月7日に「カルピス」が発売された。

現在のサントリーの「角瓶」や「オールド」は画家の井上木陀のデザインである。
1919年に「トリスウィスキー」が発売された。

大正10年(1922)株式会社寿屋に社名の改組が行われた。
翌1920年に「ハイボール」が発売された。

この時期に、のちのニッカ創業者でウィスキー技師である竹鶴政孝が
日本に帰ってきた。

1923年に信治郎は竹鶴政孝にスコッチウイスキー作りを依頼した。
京都郊外、天王山を背負い手前に木津川、桂川、宇治川が合流する「山崎」の

地に蒸留所を定めた。
ここは万葉の昔から「水生野(みなせの)」と呼ばれる名水の里である。

工場建設の最中に、大正12年(1923)関東大震災が起った。
1924年4月7日ウィスキー製造認可がおりて4月15日山崎蒸留所の起工式が行われた。

1925年の大阪(226万人)の人口は東京(214万人)をわずかに抜いて日本一であった。
世界一位はニューヨークの597万人である。

山崎蒸留所が竣工した年の会社定款の事業目的に飲食料品、化学工業品の製造販売を
加え、経営の多角化に乗り出した。

2年後の1926年に「半練り歯磨スモカ」を発売開始した。
信治郎は日英醸造という会社の経営が悪化しビール工場が競売にかけられたことを

奇貨とし、ビール事業に進出することを考えた。
当時のビール業界のトップは大日本麦酒という1906年設立の巨大企業であった。

この会社は恵比寿ビール、サッポロビール、ユニオンビール銘柄で販売していた。
市場占有率は70%であり、二位は麒麟麦酒である。

ウィスキーと違いビールは製造してすぐに出荷し現金化できることが
信治郎が魅力を感じた理由である。

昭和4年(1929)4月1日「サントリーウィスキー」が世に送りだされた。
しかし売れなかった、味がスモーキーなのである。

そんな時、次男の敬三に養子の話が持ち上がる。
名古屋電燈取締役の佐治儀助には跡取りがいなかった。

話を取り次いだのは妻の佐治くにである。
佐治儀助はすでに亡くなり妻くにが相続していた。

敬三が養子に入ったので資金面の問題は解決する。
佐治くには昭和19年(1944)亡くなった。

その年に敬三は結婚する。
昭和8年(1933)信治郎は工場長の竹鶴に話もせず300万円で鶴見工場を売った。

竹鶴は1934年に寿屋を去った。
1936年北海道余市蒸留所でウィスキーを製造開始し、社名を「ニッカウヰスキー」とした。

信治郎が最初に仕込んだ原酒はまろやかな味になり、1937年に「角瓶」を発売した。
旨いウィスキーという評判が広がり、売れ行きは伸びた。

終戦後1946年4月1日に「トリス」を発売した。
昭和34年11月(1959)一時間番組の西部劇「ローハイド」寿屋単独で放送した。

昭和25年(1950)に「サントリーオールド」が世に出る。
1976年に売上げ世界一となっていた、サントリーオールドは1980年1240万ケースを売った。

ここで政府は1981年、1984年の二度酒税引き上げを行った。
サントリーオールドの売上は最盛期の四分の一まで落ちる。

1979年竹鶴政孝がこの世を去った。
85歳であった。

1987年3月に世の中を驚かせた「アサヒスーパードライ」が発売される。
佐治敬三は父鳥井信治郎の後を継いで昭和36年(1961)に社長に就任したとき、売上高は

224億円であり、それが29年後の敬三の社長退任時(1990年)には7964億円という驚異的
成長を遂げたが、それから30年後の2019年には連結2兆5700億円の売り上げとなる。

60年間で100倍を超える。
缶コーヒー「BOSS」が発売されたのは1992年。

1993年6月には「焼酎樹氷」を発売、11月には健康食品分野の「セサミン」が登場、その後
事業の大きな柱となる。

1994年3月発売の「サントリーCCレモン」は炭酸飲料水分野で成長していく。
「水割りウィスキー」もヒットした。

2014年1月サントリーは「ジム・ビーム」で有名なビーム社を160億ドルで買収した。
これでサントリーは蒸留酒メーカー世界三位となった。

この年の7月1日に佐治信忠社長が退任し、新浪剛史(にいなみたけし)氏が社長に
就任した。

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