近松門左衛門「心中天の網島」1720年12月6日上演。
2020/07/14
「今は結ぶの神無月。せかれて逢はれぬ身となりはて。
あはれ逢瀬の首尾あらば。それをふたりが。最期日と。
名残の文のいひかはし。毎夜毎夜の死覚悟。魂抜けて
とぼとぼうかうか身を焦がす」
近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」の主人公紙屋治兵衛は
このように相手の遊女小春のもとに「死覚悟」で登場してくる。
この作品は近松世話物の最高傑作とされる。
ときに門左衛門六十八歳。
江戸社会の表層には支配階級の堅苦しい儒教道徳にもとづく
規範があったが、その下層には金銀ゆえの浮沈があり都市住民
たちは快楽の誘惑に絶えずさらされ、得体のしれない情念に
突き動かされていた。
近松の浄瑠璃に出てくる主人公は、そうした社会の下層にうごめく
名もない無力な町人、ときには奉公人たちであった。
そうした弱い立場の者が、もし社会規範つまり「義理」に抗して
愛という「人情」に身を焦がせば、いずれは両者の板ばさみに
追いつめられ、自ら破滅に突っ走っていかざるを得ない。
しかし世話物とりわけ心中劇は、その弱い者たちにすぐれた人間性
のあることを証明しようとする。
庶民はそこに、自分たちが日ごろ雑踏のなかでひそかに味わって
いた悲哀、つまり自分自身の姿を認め、涙を流したのである。
日本人の人生観の中で今でも根強く生きている「義理」家族や主従
の関係、金銭や体面上の義務にもとづく道徳律は、もともと外部から
その人を規制する社会的規範であったが、いっぽう義理はその人自身
の意識と行動を規定する至上命令という一面をもっていた。
「人情」はこれに対して人間的性情から自然におこる欲求であり
したがって「義理」にしばしば歯向かうものである。
日本人はこの両者をともに重んじ、ともに生かそうとする。
したがってその両者の調節に苦しむことになる。
しかも解決できない場合が多く、それが身の破滅を招く。
近松浄瑠璃に出てくる主人公たちの「心中」はその破滅的結末である。
「心中天の網島」には本来敵対する女房おさんと遊女小春の女同士の
義理までが出てくる。
ソポクレスの「オイディプス」と同じように、ここには悪意の人はなく
すべてが善意の人である。
悲劇は善意によって起こる。
義理と人情の板ばさみになった三人が善意を尽そうとすればするほど
悲劇的破局へと導かれ、ついに治兵衛と小春を死へと追いやる。
世間の掟という社会的規範と愛という魂の声にともに誠実であろうと
するところに、悲劇が起こる。
しかし彼らはそこでからだは滅びてもなお魂は生きて愛を完成させる
ということで救われるのである。
山本定朝の「葉隠」(1716年)に次の名高いことばを見る。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つの場にて早く死ぬかたに
片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわって進むなり」
武士は死ぬのが目的ではない。武士はすでに死んだ人間であるがごとく
生きているのでなければならない。
「葉隠」に私たちは愛のことばに出会うのである。
「恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生
忍んで思ひ死する事こそ本意なれ」
モーリスパンゲの日本文化論「自死の日本史」で愛と死をめぐって
「愛の証しのなかで、<意志的な死>がもっとも確かな証しであり
それだけが一切の疑念を永遠に消し去ることのできる唯一の証しで
あることを、愛のために死ぬのだから二人は本当に愛し合っていた
のだということを、彼はよく知っていた」とし、治兵衛と小春の愛
による「意志的な死」について話した。
「死を賭けて、すべての人に逆らって愛し合う者たちは、儒教の
ようなこの世に生きるためにしか役立たない道徳から眼をそむける。
彼らの心のなかには来世の幻想が広がる。そこに彼らは、罪を恕され
同じひとつの蓮のうえに結ばれて生まれかわるだろう。
阿弥陀仏の恩竉、観音菩薩の慈悲に彼らは自分たちの愛を溶かしあう。
死と夜の闇に身を委ね、この世の地平がもはや限ることのない愛の
夜明けに彼らは目覚めるのである」
あらゆる人間の苦悩のなかで、愛のそれはもっとも不条理な苦悩であり
それゆえもっとも汚れなき苦悩である。
愛が無分別であるということ、そこに愛の純粋が存している。
近松門左衛門は決して心中を讃えてはいない。
彼らの愛の無意味性を描きつつ、その轍のあとを踏むなという願いを
こめて、人間の尊厳を歌いあげたのである。
「この世の名残。夜も名残。死にゆく身をたとふれば、仇しが原の道の霜
一足づつに消えてゆく。夢の夢こそ あはれなれ」
「曾根崎心中」の徳兵衛お初道行の名高い出だしの一節である。
日本人にはもともと精神と物質を対立させて考える伝統はなかった。
二元的に対立させて考えると矛盾、相克が生れる。
鈴木大拙は日本的霊性により、精神の倫理性を霊性は超越するとした。
つまり精神は分別意識を基礎にしているが、霊性は無分別智だという。
日本的霊性は浄土系思想と禅のなかに発現し、精神と身体の一体化は
日本文化あるいは日本人の宗教意識のなかに洗練され生きてきたと言った。