1693年(元禄六年)52歳で亡くなった井原西鶴老いの楽しみ。

      2020/07/13

DSC08260

DSC07860

「人間五十年の究り、それさへ我には余りたるに、ましてや
浮世の月見過しにけり末二年」

芭蕉が五十年の生涯をとじた元禄七年(1694)の前年元禄六年
八月十日、おなじ大坂で井原西鶴は上句を残して世を去った。

数え年五十二歳であった。
二年も生きすぎたと西鶴は自嘲している。

江戸時代の人はひとしく「人生五十年」と意識していた。
江戸時代の日本人の平均寿命はきわめて低かった。

江戸の町人の例としては、江東区にある江戸中、後期の出土人骨
の平均死亡推定年齢は男39.9歳、女40.4歳である。

こうした死亡年齢の低さは、いうまでもなく乳幼児(五歳以下)
の死亡率の異常な高さによる。

明治時代前半に入っても平均寿命は三十歳台であったといわれ
四十歳を超えたのは大正時代、終戦当時が60歳である。

西鶴は「浮世の月」と言った。
西行や鴨長明なら「憂世の月」と言うであろう。

江戸時代は浮世の時代ともいえる。
さまざまなところで浮世という言葉がつかわれ、人生の短さという

観念ともども、人びとの心の奥に、この世は浮世というおもいが
定着している。

西鶴の処女作「好色一代男」(1682年)の出だしにも「浮世の
事を外になして」とあり、主人公世之介は別名浮世之介である。

版画では浮世絵、そして浮世風呂など浮世全盛時代である。
浅井了以は「浮世物語」において、世の中一寸先は闇だから何事も

その場で片付けて月や花を楽しみ、歌を歌い、酒を飲み、手前(家計)
が無一文になっても苦にならず、深く思いこまない心立(心意気)

で屈託なく世の中を生きていく、これを浮世と名づけるという
のである。

浮世は夢幻という現世=浮世=夢幻という観念はライフスタイルの
短かった時代に生れた観念であるが、長寿国となった現在の日本人

の死生観の基層にまで根強く生きているのである。
西鶴の町人物の第一作は「日本永代蔵」には

「人間長く見れば朝は知らず、短く思へば夕べに驚く。されば、天地は
万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻といふ。」とある。

アメリカの文化人類学者ルースベネディクトは日本文化論を書いた
「菊と刀」で「日本人は自己の欲望の満足を罪悪とは考えない。

彼らはピューリタンではない。彼らは肉体的快楽をよいもの、涵養に
値するものと考えている。」

「日本では快楽は、義務と同じように学ばれる。彼らは肉体的快楽を
あたかも芸術のように錬磨する。」とある。

「好色一代男」において性愛は武道、茶道、華道などとおなじく「色道」
という言葉に象徴される。

西鶴が生きた時代江戸前期は、今日の低成長期の日本と共通する世相で
あったが、この金銀だけに左右される町人世界をいかに生きるべきか

西鶴はなにより「老い」をしっかり視野に入れた人生設計を語る。
早起きして仕事に励み、節約して健康に気をつけ夜遊びに耽らない。

これが江戸人の生き方の指針である。
勤勉、健康、節約、禁欲を説き楽しみを老後にとっておくことを勧めた。

 - 芸術