安保闘争は59年と70年に安保条約に対して起きた闘いである。

      2020/05/24

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1951年サンフランシスコにおいて対日講和条約が結ばれた
とき、それと同時に日米安全保障条約が調印された。

革新陣営の多くは、日本がアメリカの軍事基地化すること
そして日本の再軍備化が促進されることなどを懸念して

この条約に反対した。
保守陣営の少なからぬ部分も、アメリカの対日防衛義務が

明記されていないことを主な理由として、これを不平等
条約とみなしていた。

日本政府はより双務的で自主的な方向に、条約を改定
しようとした。

そして15ヵ月に及ぶ外交交渉の結果として、1960年
1月19日新日米安全保障条約がワシントンで調印される

運びとなったのである。
日本の国会の安全特別委員会では、この新条約の批准を

めぐり、政府、与党と野党のあいだで激しい論戦が
たたかわされた。

たとえば日米間の「事前協議」において合意に達する
ことが必要なのかどうか、防衛範囲としての「極東」とは

どこまでを含むのか、などについて細かい議論が続いた。
新条約が批准されたのは、1960年6月23日であった。

しかし1960年は新安保条約の成立そのものよりも安保闘争
と呼ばれた反対運動が国民的高まりを見せた点で、戦後の

歴史の中でも特別な年になっている。
しかし国民は、条約の内容を詳細には認識していなかった。

「平和」という言葉はひとつの魔語であった。
この言葉のまわりには、建前本音を問わず抗いがたいムード

が醸成される雰囲気を感じたのである。
平和の敵とはアメリカ帝国主義とその傀儡とみなされていた

日本の支配層のことであった。
戦前戦中の軍国主義体制の経験者にとっては、民主主義の危機

は戦後の否定であり戦前の恐怖をあからさまに見せつけた。
戦犯追放の経験を持つ岸信介が首相になる事態は脅威であった。

「幻像の保守へ」西部邁著 文藝春秋参照

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