アドマスが繰り広げる光景はダンスマカーブレ(死の舞踏)だ。

      2020/05/21

DSC08145

1エゴン・シーレ

マスコミに動かされやすい人々のことを、英国では
アドマスと呼ぶ。

これは侮蔑語である。
アドヴァタイズ(広告)するといえば、それは価値あるものを

報告し価値なきものに警告することであったが、そんな語義は
とっくに廃止された。

いま広告といえば誇大広告を意味することがある。
誇大広告で右往左往し、付和雷同し、跳梁跋扈するのがアドマスだ。

今はビッグブラザー(ジョージオーウェルの小説「1984年」に登場する
架空の人物)について思いを新たにすべき年ではない。

おびただしい数のスモールブラザーズが、神であれ仏であれ、価値であれ
規範であれ、いっさいの観念を弄んでいる。

1984年の状況はそうしたもののようである。
生きていることは、ビッグなものの前で自分がいかにスモールなものか

を知り、それゆえに世界が驚きに満ちるという生である。
私たちは驚きの感情をなにひとつもたずに、驚くべき速度で回転してゆく

多様性もしくは差異化の時代に馴れ親しんでいる。
今の風潮の中で極大にされているのが、新奇さの自己増殖につきすすむ

アドマスの力であり、極小にされているのは、がんらい新奇さの是非について
判定基準を与えてくれるはずの、トラディションいわゆる伝統の力である。

トラディションとは「運ばれしもの」をいい、ラテン語ではdare(与える)
英語ではdonation(寄付)ということである。

トラディションをあたうかぎり蔑ろにしようとするアドマスの生は平衡を
欠いているといわざるをえない。

信仰と懐疑を失った「奇怪な無」としての大衆が社会の前面にせりだして
きたのは、キェルケゴールの時代からすでに明瞭であった。

制度は虚構である。
しかし、なくてすませるような虚構ではない。

幻想の物語の堆積するところに、歴史が成りたち、歴史を離れて自由はない。
自由な会話は矛盾と逆説にみちているが、制度が文脈を与えてくれることで

会話が物語たりえている。
人間精神の中心にうがたれた無としての逆説に輝きをもたらす制度がある。

知識人は制度を破壊するのに躍起であった。
先入見を懐疑するのが知識人だが、しかし疑っている自分がいることは疑えない。

 - 禅・哲学