忠義と大義に徹することは、人間も家も消える覚悟が必要。

      2020/05/18

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3西郷隆盛像 - コピー

1867年12月9日、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らは武力で
徳川幕府を倒すため、薩摩藩兵が警護する御所で薩摩、土佐

安芸、尾張、越前の五藩が参加する会議をひらき、「王政復古
の大号令」を発した。

大坂にいた徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで薩長連合軍にやぶれ
江戸にもどった。

新政府は慶喜を「朝敵」として討伐軍を江戸に進撃させた。
徳川家に着いていた会津藩も同じ扱いをされた。

新政府は1868年4月に江戸を占領した。
9月には会津藩の会津若松城も落とされた。

この一連の戦いを「戊辰戦争」という。
この時、明治天皇は16歳である。

孝明天皇は会津藩にとって絶対的存在であったが、1866年
12月12日病に倒れ24日に36歳で亡くなった。

問題点は幕府と会津藩の尊王と攘夷へのこだわりである。
1866年薩長同盟が結ばれ、薩摩藩はこの時会津藩と縁を切った。

この時動いたのは、坂本龍馬であり、長州は木戸孝允である。
薩長盟約は幕府と会津藩に対する宣戦布告である。

結果、徳川慶喜は1867年10月13日に、在京諸藩の重臣を二条城
に集め大政奉還を宣言した。

徳川幕府を慶喜が何を思ったのか、潰してしまったことはアヘン
戦争のことを考えると結果良しである。

権力を捨てた慶喜に対して、西郷隆盛は次の行動に移った。
松平容保も失脚してしまった。

薩摩は御所を占領し、明治天皇を手に入れた。
偽の勅書と錦の御旗を使い官軍となった。

慶喜は大坂から江戸に逃げてしまったのである。
慶喜は強硬派の小栗上野介を罷免し、かわって勝海舟を海軍奉行

と陸軍総裁につけた。
勝海舟は静岡に山岡鉄舟を派遣し西郷に海舟との会談を申しいれた。

民俗学者の宮田登氏は「奥羽地方は陸奥といわれ、奥行きという
考え方を持っていた、そこは聖域である」独自の風土が存在する。

聖域を維持するには、人材と天才性が必要である。
幕末、奥羽地方には不幸なことに、天才は現れなかった。

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