ドイツは第二次大戦後、「国旗」も「国歌」も変えたのである。

      2020/05/01

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しかし敗戦で、事実上国家は崩壊していたのに日本人は
それを意識することなしに、現在に至った。

そして1999年なし崩し的に「国旗、国歌法」が成立して
しまった。

日本はいろんな分裂国家の連立する列島にすぎない。
源頼朝が当初、東国国家独立の方向に傾くのは、もともと

日本列島の東と西とは異質な社会であったという背景が
あったからである。

列島の東と西とでは習俗や文化がまったく違う。
一番わかりやすいのは、言葉である。

津軽弁と薩摩弁が会話できるわけがない。
明治政府は地域の言葉を「方言」として押さえつけ標準語を

強要したのである。
歴史的に奥羽に敵対する関東に対して、むしろ西の京都と奥羽

は結びついた。
戦後しばらくして奥州藤原氏三代のミイラが出てきた時、あの

骨が北方系、アイヌではないことが解った。
北の人は自らの力で、アイヌの伝統や朝鮮の伝統を覆い隠している。

従って周縁から中央の意向に染まりやすい傾向がある。
しかし現在奥羽の歴史化自身が、「十一世紀まで奥羽の最北部は

日本ではなかった(蝦夷である)」と断定的に発言している。
北海道南部と奥羽北部は一体であるという。

戦後歴史学の中で、石母田正さんが、未開の東国こそ、文明の京都
を克服する力があるという、辺境の理論を主張した。

京都の歴史家からは厳しい批判が起った。
武士は公家に雇われた殺し屋の集団で、武力の芸能集団だと見たほうが

自然なのではないかということです。
東の野生が中央の西を乗っ取ったという図式ではなく、東の文化に西が

移動しただけであるというのが石母田正さんの考え方である。
辺境の諸国が力を蓄えて、自分たちの方から中央を取り込む形で「日本」

に入り込んでいった。
室町から戦国にかけての動向が、「頼朝の東国政権」構想の延長線で見える。

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