「無と存在」の問題は難問で、無には「無」という存在がある。

      2020/04/03

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「なぜ、無よりはむしろなにかが存在しようとするのか」
というハイデガーの自問自答、ライプニッツ自身が

「無そのものの近くにいることが一番楽だから」と答え
ようとして、なおかつ「無ではなく存在になってしまうのか」

とあらためて問うた途端にわからなくなってしまった問題。
二十世紀はまさにこの難問を解くためにあるようなものです。

そして二十世紀は解答をもたぬままその歩を現在の世紀に
はこびつつあります。

ここにおいて一人の天才の出現が望まれるものの、もはや
事態は、街そのものの事物や生活そのものに浸みこんで

そこにおいて「存在」と「無」のあいだを密やかに往復する
不思議なあいまい粒子、精神とも物質ともつかぬ気配物質

(ニュートリノのような物)にまでおよんでいるため、解決は
一人一人のひらめきに委ねられているともいえる局面である。

二十世紀の気配物質の語りてこそ、バートランド・ラッセル
やポールヴァレリーでした。

けれどもラッセルには「オブジェ」がなく、ヴァレリーには
「物理学」がありません。

小林秀雄や湯川秀樹もすぐれた候補ですが、前者には「生命
の洞察」がなく、後者には「少年の悪意」が介在していません。

もっと徹底したアマチュアの登場が必要なのです。
稲垣足穂が1900年に、すなわち、ニーチェが死に、ピカソが

ロートレックにびっくりし、プランクが量子定数nを公表し
ツェッペリン伯爵が飛行船を飛ばした年に誕生したのは暗示的だ。

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