日本海海戦は1905年5月27日から5月28日にかけて戦れた。

      2020/03/20

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日本海海戦はロシアの艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将
と日本の連合艦隊司令官東郷平八郎大将が戦ったものである。

古来海戦とは滅多に発生しない。
近世においてはより起こりにくいことである。

原因は、敵艦隊が強いとみれば、自国の艦隊は逃げ隠れし
陸戦にかけるからである。

19世紀に入ると戦艦や巡洋艦などの量、仕様などを公表するのが
一般的になった。

公表することで抑止力を期待するのである。
結果互いに海軍力が劣勢か優勢か、あらかじめ知ることができる。

日本海海戦は日露両国の間で戦われたが、ともに当時としては
世界最高水準の兵器を駆使して戦った。

海戦の中心になるのは戦艦と巡洋艦である。
明治の日本人はこのきわめて重要な二つの艦種の使用について

「速力のある巡洋艦こそが、海戦において勝敗を決定すること
ができる」と考えた。

船の速度は、敵艦の射程距離から離れることを可能にする。
すなわち速度は装甲である。

速度は艦隊を的確に運用することにより、敵の艦隊に砲力を集中
することを可能にする。

つまり速度は砲力である。
速度こそ敵の砲弾から自艦を守ることを可能にする。

東郷平八郎(1847~1934)の先祖は、坂東八平氏の流れをくみ
1180年の石橋山の合戦にも登場する相模国高座郡渋谷庄の住人

渋谷重国の子、太郎光重が鎌倉幕府より薩摩に五ヶ荘を与えられ
そのうち東郷荘を相続した実重という。

島津家の家来としての東郷氏は、その勇名をもってたびたび
登場する。

江戸期に入り東郷氏は諸流生じて、東郷平八郎の元祖は東郷重友
といい、重友六世の末裔が実友で五男一女をもうけた。

このうちの四男が平八郎である。
名乗りを実良という。

平八郎は鹿児島市加治屋町で生れた。
西郷隆盛、大久保利通、大山巌、山本権兵衛も加治屋町である。

日露開戦時、連合艦隊司令部の人事は、山本権兵衛、伊東祐亨
樺山資紀の三人の合議のうえ明治天皇に推挙する形で進められた。

東郷平八郎の連合艦隊司令長官の任命の理由が、はたして
「東郷は幸運な男」という理由であったのだろうか。

時は1903年10月、東郷平八郎は56歳であった。
高齢である。

日本海海戦の深層 別宮暖朗著 筑摩書房

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