文学とは錯乱、健康の企て、民衆を創造することである。

      2020/02/25

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ルイス・キャロルにおいてすべては恐るべき戦いから
始まっている。

それは、さまざまな深みの戦いだ。
物は弾け跳んだりわれわれを笑いで弾き跳ばしたり

するし、入れ物は中身に比べて小さすぎ、食べ物には
毒があるか害があり、腸は伸びてゆき怪物どもは

われわれをパクリとくわえこむ。
そこは身体のアクションとパッションの領域である。

「不思議の国のアリス」はアリスの地底冒険である。
キャロルは日本の絵巻物の流儀にならって絵巻本と

いうべきものを作った。
深み、表面、総量あるいは丸く巻かれた表面でその

恐怖と栄光を説明するには充分なのである。
意味の中でゲームをし通したということである。

思考の様態あるいは魂の内包的運動としての
もう一つの古めかしい時間の考え方があった。

一種の精神的で修道士的な時間である。
デカルトの「コギト」が実行するのは、その還俗

世俗化である。
すなわち「私は思考する」は瞬間的な規定行為であり

この行為は一つの無規定な実存(私は存在する)を
伴い、かつ思考する実体の実存としてその実存を

規定する(私は一つの思考する物)ことである。
無規定な実存が規定可能なものになるには、ただ

時間の内部においてのみであるということだ。
ゆえに「私は思考する」は時間を触発するのであり

時間の中で変化し、一瞬ごとに意識のある度合いを
呈示する、そんな自己の実存のみを規定するのである。

ドゥールーズにとって文学、書くことが重要なのは
この言語の作業がまさしくこの二つの思考、生の思考

と生一般の思考のあいだにあって、つねに前者のために
場所を開き拡大し反復するかぎりにおいてである。

書くことエクリチュール(対してパロール話言葉)の
実践はドゥールーズにとり、それが内在面における

一つの生を肯定し、その純粋な力を解放するかぎりに
おいて意味をもつのである。

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