「藤原家伝」は奈良時代後半760年頃作られた家史である。

      2020/02/21

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皇極女帝二年(643)10月に蘇我入鹿はころもろの
息子たちとともに謀略を企て厩戸皇子の息子である

山背大兄皇子らを殺そうと考えて「山背大兄は我が
家系に生まれた。そのすぐれた徳性は世に知れ渡り

偉大な徳によって人々を正しい方向へ教え導く影響力
は、あり余るほどである。舒明天皇が皇位を継承された

時、臣下たちは蘇我蝦夷(伯父)と山背大兄皇子(甥)
の間には、深いみぞがある」と噂した。

山背大兄皇子を次の天皇として推挙した坂合部臣摩理勢を
父の蘇我蝦夷が殺したことによって恨みは深まった。

舒明天皇が亡くなり皇后(後の皇極女帝)が即位を待たずに
政務を取っている。

天皇になる気満々の山背大兄皇子は心中穏やかではない。
蘇我入鹿は山背大兄を亡き者にする計略を立てた。

そして山背大兄皇子を斑鳩寺において殺害した。
父の蘇我蝦夷は怒り、憂慮に堪えない面持ちである。

入鹿の方はこれで後々愁いを残すことはないと考えた。
後漢の董卓のように狂暴に権勢をふるいかねない入鹿の

傲慢さが現実のものになった。
こうした中、中大兄皇子は中臣鎌足に

「天皇の政治が、議政官によって左右され周王室の権威が
魯の皇族、季孫氏に移ったように皇位が重臣の手に渡ろ

うとしている。公はこの事態にどう対処しようとするのか。
妙策があれば述べてほしい」と言われた。

大臣は乱れた世を治め、正道に戻すための計略を詳細に
話した。

中大兄皇子はこれに対し、「まさに公は漢の張良のような
信頼するに足る存在である」と言われた。

大臣は勢力のある一門の助力を求めようと考え、入鹿と
不仲な人物を探していると、蘇我倉山田石川麻呂が入鹿と

いがみあっていることを突き止めた。
中大兄皇子にこのことを話し、まずは姻戚関係を結び、その後

肝心の戦略に移行することをお願いした。
中大兄皇子はこの意見に従い行動を開始した。

山田石川麻呂は申し出を承諾した。
大臣は山田石川麻呂に対し、「入鹿の乱暴な振る舞いは、人も

神も皆が憎んでいます。この情勢をご判断下さい」と言ったところ
「私もそのように思います。命令に従います」と返答された。

大臣は二人の部下を推薦し、中大兄皇子はこの意見を承認した。
645年6月12日に皇極女帝は正殿に出御した。

中大兄皇子は舎人を遣わして、入鹿を呼び寄せた。
入鹿は斬り殺された。

しかし入鹿の父親蝦夷は健在である。
6月13日蘇我蝦夷は自宅で自殺した。

6月14日皇極女帝は皇位を中大兄皇子に譲ろうと考えている。
中臣鎌足は叔父の軽皇子を立てることが民衆の要望にそうと答えた。

皇極女帝は皇位を軽皇子に譲った。
これが孝徳天皇である。

中大兄皇子は皇太子となった。
孝徳天皇は突然亡くなる。

皇極女帝は重祚し、斉明天皇となった。
662年斉明天皇は病気になり亡くなった。

天智天皇が後を継いだ。
669年に中臣鎌足は体調が悪くなり天智天皇は太政大臣に任じ

姓を改めて、藤原朝臣とされた。
669年10月16日、藤原鎌足は56歳で亡くなった。

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