コロンブスのアメリカ発見とレコンキスタ完了は1492年。

      2020/02/17

DSC07818

DSC06397

レコンキスタによりイスラム文化の栄華をきわめたグラナダが陥落
して1492年にスファラディと呼ばれる南欧系のユダヤ人がいた。

レコンキスタの完成とユダヤ人追放令により、ユダヤ教徒はムスリム
と同様に三つの運命のいずれかを選択しなければならなかった。

一つはカトリックへの改宗か、死に至る異端審問か、亡命のいずれか
であった。

離散したユダヤ人が見出した安住の地は、地中海のかなたのオスマン
帝国の領内にあった。

首都のイスタンブールに鄭重に迎えられた彼らは、帝国のキリスト教徒
と同様、宗教的共同体として認められたのである。

このスファラディの追放からちょうど500年目にあたる1992年3月になり
カトリックスペインのファン・カルロス国王とイスラエルのヘルツォーグ

大統領の出席する記念式典が行われた。
15世紀のオスマン帝国は欧州キリスト教国と違いかくも寛大であったのだろうか。

オスマン帝国が解体してから70年たった1991年1月湾岸戦争の前夜、ジュネーヴ
での外相会談に臨んだアメリカの国務長官ジェームスベーカーは、イラクの

外務大臣ターリクアズィーズの外交官としての才覚に舌をまいたと
言われる。

英仏語に堪能なアズィーズはアッシリア人の家に生れたキリスト教徒であり
ムスリムではなかった。

湾岸戦争が終わってまもなく世界の耳目はユーゴスラヴィア情勢にそそがれた。
セルビアとクロアチアの内戦は、ボスニアヘルツェゴビナに波及した。

1979年2月当時ティトー(1892-1980)イランイスラム革命が起きると
ボスニアヘルツェゴビナのイスラム社会運動が分離主義的傾向と結合する

ことを危惧した。
1980年にティトーが亡くなり、ユーゴの民族紛争は激化したのである。

現在生じているのは、まさに「サイクスピコ秘密協定」から100年ぶりに
中東でまがりなりにも維持されてきた、古い国民国家の枠組みと秩序が

解体している事態なのだ。
最終的には国境や境界の引き直しによる新しい国家と秩序の再編につながる。

そのなかでも「エルサレム」はユダヤ教徒だけでなくキリスト教徒や
イスラム教徒にとっても1000年以上の由緒を持つ聖地であり、重要性は

限りなく大である。
トランプは鈍感である。

 - 歴史