豊臣家は夏の陣で滅び家康は全国の大名と朝廷支配を確立。
2020/02/15
1600年9月15日朝、徳川家康の計略によって関ヶ原に誘い
出された西軍と東軍のあいだで合戦の火蓋がきられた。
西軍8万、東軍(徳川方)7万5千の軍勢。
午前8時に始まった戦闘は一進一退の激戦であった。
しかし松尾山に陣取った小早川秀秋は東軍に寝返り
五奉行の一人長束正家、毛利秀元、安国寺恵瓊
長宗我部盛親の軍は動かず、実際の西軍の軍勢は
3万あまりであった。
さらに大将毛利輝元は大坂城におり、吉川広家は
戦闘を回避していた。
一方東軍は遅刻した徳川秀忠を欠いていたが、西軍
の勝ち目は初めからないといえた。
関ヶ原に勝利した家康は軍を進め、石田三成の佐和山城
を攻め、落城させるや大津城に入った。
ついで大坂城に向かい本丸の秀頼に会い、家康の天下は
ゆるぎないものになった。
家康にとって関ヶ原の戦いは、あくまでも豊臣五大老
としての立場からの戦いであり、石田三成らの誅伐の
ための戦いであって、名分の上では豊臣氏と徳川氏の
闘いではなかった。
名分とは別に、実質的な天下は家康により掌握された。
家康は西軍に参加した諸将の領地の没収と東軍に参加した
者の論功行賞にとりかかった。
領地を没収された主な者は、備前57万石宇喜多秀家、土佐
22万石長宗我部盛親、大和郡山20万石増田長盛、肥後宇土
20万石小西行長、近江佐和山19万石石田三成などである。
その総数は87名、415万石にのぼった。
西軍の大勝であった毛利輝元は安芸広島120万石から周防
長門二国37万石に、上杉景勝が会津120万石から米沢30万石に
佐竹義宣が水戸54万石から秋田20万石へ減封され、あわせて
208万石にのぼった。
豊臣氏の蔵入地(直轄領)は65万石に削減された。
結果、家康が論功行賞にあてることのできた高は780万石に
達した。
これは全国の約40%にあたる。
いっぽう論功行賞に与った大名は104名、635万石にのぼった。
このうち外様大名は52名、422万石で宇都宮18万石から会津
60万石に蒲生秀行、豊前中津18万石から福岡52万石の黒田長政など。
この結果、徳川家の蔵入地の高はほぼ400万石に達し、その財政基盤
は格段に強化された。
1612年大坂城包囲夏の陣が始まる。
1615年5月7日大坂城は火炎に包まれたが、秀頼夫人そして秀忠の娘
千姫は家康の陣に送りとどけられた。
秀頼は23歳の命を絶ち、淀殿もここに自害した。
秀頼の子、八歳の国松は大坂城を逃れたが、伏見で発見され
京都六条河原で切られた。