東京は坂の街。道がなければ坂ではない。道があれば坂がある。

      2020/02/12

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1772年ころの江戸図には、下渋谷あたりに「●松平肥前」
と記してあり、肥前の守の下屋敷があった。

その屋敷の南わき道路に坂の印が付いて「ナイキ坂」と
見える。

ゲキ坂(外記坂)と同様に官職名の呼称からできた坂の名である。
この坂のそばに、かならずナイキ(内記)を名のる人が住んでいて

その名前が坂の名になったということなのである。
1772年ころの松平肥前守といえば肥前佐賀の藩主35万7千石の

松平肥前守治茂のことである。
それなら、この松平肥後守の系譜の中に内記を名のる人はいた

のであろうか。
この松平家には江戸初期の先祖、鍋島氏のころから1772年まで

一人も内記を名のる人はいなかったのである。
だとすると、この松平肥前守前屋敷の右側の道路「ナイキ坂」は

はたしてだれの内記であったのか。
1757年の「江戸大絵図」の右と同じところの図を見ると

「此ヘンナイキ坂」という地名のわきに、「⏳松平丹後守」と
記してある。

この絵図の場合、⏳ちきりは下屋敷という意味の略号である。
この松平丹後守は宗教といって、松平肥前守治茂の兄にあたる人だ。

松平丹後守の屋敷のたぶん右わきの道路が「ナイキ坂」なので
あろう。

しかし、この道路は金王八幡社と一柳土佐守屋敷のあいだに通ずる
いわゆる八幡通りであって、古くは鎌倉街道と呼ばれたものである。

松平丹後守の南わきの坂を内記坂といったのは、隣家の横山内記
の北わきの坂になるからで、この内記から発生したものに違いない。

横山内記知清という人である。
屋敷は三千九百坪あった。

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