永平寺で修行をつんだ禅僧においても「信心」の懐疑はある。

      2020/01/08

DSC05613

DSC08088

「生死」
生れることと死ぬこと。
仏典においても、生死の連続は苦と捉えられており
さらに仏教においては生死の繰り返しは、我々人間の
煩悩に起因すると考えられたため、煩悩を滅すること
により、生死の連続からの解放が可能になるとされた。

修行のために永平寺に入ってしまえば、金や異性、地位
といった迷いの根本になるようなことを考えないで済む

どころか、ほとんど存在の余地はない。
そうすると人間関係におけるもめごとは極端に少なくなる。

生の時間が途切れて死が訪れると思われがちだが、実感
としては生と死の時間は並行に流れている。

死の重力がかからない生というのは、生ではないだろう。
死の重力に必死になって抵抗しながら、人間は生きている。

最近の葬祭場は「減価償却」を三十年としているらしい。
つまり団塊の世代が消滅するまでの期間である。

団塊が死んでしまうと、寺院は今までの規模を維持できず
経済的に成り立たなくなる。

「直葬」が際立って増えていることは、この現実を先取り
しているのではないだろうか。

日本の仏教宗派で考えると、信徒に一番近い考え方で営業
をするのは「浄土真宗」であろう。

「波阿弥陀仏」と唱えれば浄土に行けるというのは魅力だ。
最も遠いところにあるのは、「曹洞宗」何しろ難解である。

曹洞宗の教えは「身心脱落」である。
瞑想に入り、心身が脱落して、仏の姿が清らかに見えるように

なれば、私たち俗人から苦しみも煩悩も消え去り悟りの境地の
ような心境になれるということだ。

親鸞さんと道元禅師はよく似ている。
対極にいるのは、空海上人と法然上人である。

法然上人はキリスト教宗教改革のルターと非常によく似ている。
空海上人はアニミズムを密教の形而上学的な世界に昇華させた。

 - 禅・哲学