永平寺で修行をつんだ禅僧においても「信心」の懐疑はある。
2020/01/08
「生死」
生れることと死ぬこと。
仏典においても、生死の連続は苦と捉えられており
さらに仏教においては生死の繰り返しは、我々人間の
煩悩に起因すると考えられたため、煩悩を滅すること
により、生死の連続からの解放が可能になるとされた。
修行のために永平寺に入ってしまえば、金や異性、地位
といった迷いの根本になるようなことを考えないで済む
どころか、ほとんど存在の余地はない。
そうすると人間関係におけるもめごとは極端に少なくなる。
生の時間が途切れて死が訪れると思われがちだが、実感
としては生と死の時間は並行に流れている。
死の重力がかからない生というのは、生ではないだろう。
死の重力に必死になって抵抗しながら、人間は生きている。
最近の葬祭場は「減価償却」を三十年としているらしい。
つまり団塊の世代が消滅するまでの期間である。
団塊が死んでしまうと、寺院は今までの規模を維持できず
経済的に成り立たなくなる。
「直葬」が際立って増えていることは、この現実を先取り
しているのではないだろうか。
日本の仏教宗派で考えると、信徒に一番近い考え方で営業
をするのは「浄土真宗」であろう。
「波阿弥陀仏」と唱えれば浄土に行けるというのは魅力だ。
最も遠いところにあるのは、「曹洞宗」何しろ難解である。
曹洞宗の教えは「身心脱落」である。
瞑想に入り、心身が脱落して、仏の姿が清らかに見えるように
なれば、私たち俗人から苦しみも煩悩も消え去り悟りの境地の
ような心境になれるということだ。
親鸞さんと道元禅師はよく似ている。
対極にいるのは、空海上人と法然上人である。
法然上人はキリスト教宗教改革のルターと非常によく似ている。
空海上人はアニミズムを密教の形而上学的な世界に昇華させた。