哲学者の三木清は終戦直後昭和20年に、思想犯で獄死した。

      2019/10/13

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懺悔は語られざる哲学である。
それは争いたかぶる心のことではなくして和ぎへりくだる

心のことである。
哲学が論理の巧妙と思索の精緻とを誇ろうとするとき懺悔

としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを
失わないように努力する。

語られる哲学が多くの人によって読まれ称賛されることを
求めるのに反して、語られざる哲学はわずかの人によって

本当に同情され理解されることを欲するのである。
それゆえに語られざる哲学は頭脳の鋭利を見せつけようと

したり名誉を志したりする人が試みない哲学である。
なぜならば語られざる哲学の本質は鋭さよりも深さにあり

巧妙よりも純粋にあるからである。
またそれは名誉心を満足させるどころかかえってそれを

否定するところに成立するものであるからである。
語られる哲学においてと同じように語られざる哲学において

大切なことは、正しき問い方をすることと正しき出発点を
とることとである。

正しき問い方をなさないものは決勝点を見定めておかないで
勝手な標的に向かって走る選手のようなものである。

彼のすべての努力は単に疲労をもたらすばかりであって到底
勝利をかちえさせはしないだろう。

正しき出発点をとらないものはあたかも誤ったコースに従って
走る選手である。

彼が一生懸命に走れば走るほど彼は決勝点から遠ざかりつつある。
カントは哲学に正しき問い方を教えたものとして、デカルトは

哲学の正しき出発点を見出したものとしてことに賞賛されている。

 - 禅・哲学