日本は600年ぶりに民族が真剣に「諦め」を考える時といえる。

      2019/10/05

1エゴン・シーレ

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魯迅はいった。
「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相等しい」

絶望も希望も、ともに人間の心の振れ方である。
この二つから解き放たれた目だけが、人生を究めることが可能だ。

しかし残念なことに、人間は最期までこのどちらをも
捨て去ることができない。

人は無意識のうちに、何かに頼り、知らないうちに
見えない物に心をあずけている。

アフリカの内乱もアフガニスタンのテロもチリの
独裁政治も過去において、もしくは現在まで混乱を

極めてきたが、1945年に空襲、沖縄の玉砕、広島、長崎の原爆を
経験した日本は世界にない悲惨な経験をしている。

「地獄は一定すみかぞかし」と親鸞は言った。
自分が今いるのは、悟りすました解脱の世界ではなく煩悩の地獄である。

すべてが焼き払われ、300万人の人間が犠牲になったことで、戦後
マッカーサー元帥の政策により、農地解放、財閥解体が実現し戦前の

許しがたい軍国主義は破壊された。
戦争がなければ、高度成長期も民主主義も存在はしなかったであろう。

しかしながら、あらためて日本は地獄に向かって進んでいる。
「格差社会」「下流老人」「教育差別」などの言葉が、社会に登場した

のは21世紀に入ってからであり、このような時代になったのは、たった
20年前に過ぎないのである。

政治の過ちは恐ろしいものである。
ソフトランディングしなければならない時に成長主義では壊れる。

日本にはなじみませんが、19世紀のロシアの大作家ドストエフスキーは
「もし神がいないとすれば、人はどれだけの悪をなせるのか」

という問題を追及した人です。
それは神が存在するという前提での思考です。

しかし今の日本は15世紀の応仁の乱の直前の状況にあります。
神も仏も存在せず、何のプランも、百年の計もなく「まつりごと」を

おこなっている。
人口が減少し日本人がいなくなれば、安保も安全保障も必要はなくなる。

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