南北朝から始まる戦乱期の記録を「太平記」と名付けた意味は。

   

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戦前の異常な思想体系においては、特異な考え方を国民に
押し付けたものである。

その一つに室町時代、南北朝を作った後醍醐天皇に対抗した尊氏
を国賊とした。

今この二人を比べれば、後醍醐天皇は約束事をいとも簡単に破る
人間で、評価はできないが足利尊氏は室町幕府を打ちたてて

後に足利義政は現代に残る文化を創出している。
これは、信長も秀吉も家康もできなかった事である。

古代において自分が天皇になろうとした人は大海人皇子そして
中大兄皇子がいた。

後醍醐天皇は鎌倉時代、北条家がいなくなり兵力のない自分が
新田義貞らの武士を引き連れ親政を行おうとした。

武力の時代にそれなしで、政権を摂ろうというのは無理な話で
ある。

それに対抗した足利尊氏は政治は弟の直義のほうが優れていたが
戦闘力は天下一品である。

後醍醐天皇はいやいや、尊氏に征夷大将軍を贈った。
位も従二位である。

1335年後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じた。
新田義貞は家柄が尊氏にとても近いが、自分が天下を取る器量は

ない。
後醍醐天皇に尊氏追討を命じられ喜び勇んだ。

しかし武士たちの人気は断然尊氏が上であった。
尊氏は翌年1336年京に突入した。

後醍醐は比叡山に逃げた。
しかし尊氏は義貞に敗けてしまう。

尊氏は九州に行き再起を図ろうとしたのである。
光厳上皇の「院宣」も貰うことがかなった。

これで反逆者ではなくなった。
光厳上皇の弟が光明天皇となった。

尊氏は後醍醐を追い詰め和議を持ちかけた。
後醍醐側は三種の神器を光明天皇に渡し正式に譲位する。

代わりに後醍醐の皇子となり、次代の天皇になる。
後醍醐は和議を受け入れた。

ここでプライドばかりで性格に問題のある後醍醐の悪癖が表に出た。
光明天皇に渡した三種の神器はニセモノであると言いだし尊氏を

討伐せよと宣言した。
どうしようもない人である。

そして天皇家は南北に分裂し1392年までの56年間この状態が
続いた。

尊氏は勝ったのである。

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