3.11事故が人類の叡智を超えた事実を認識しないのは愚かだ。

   

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歴史上起きたあらゆる出来事は、記憶喪失者においても
すべてが歴史的現在に在り続ける。

歴史を見ている人類は、この現在に存する。
我々は生きていること、そのことが、すでにして情報を

編みだしていることになる。
知覚するのも文章を書くことも読書するのも同様である。

2011年3月のような事件を経験した日本は「存続する思想」を民族
が100年生き続けるような変革ベースで生まれ変わることはないのか。

どうやら70年代のオイルショックから40年を経て社会の実体が過去
とは違ったものになった事にかかわらず、旧態依然の姿でいたことの

長いツケがまわったとしか言えない。
それであるならば、我々が挑むべきは事故と損傷の正体の只中に身を

おいて新たな意味を再発見するしかない。
創造の「創」は「きず」という意味が含まれている。

そこから「絆創膏」とは、その創をつなぎバンディングしていくこと
をいう。

白川静さんは、いったん刀をもって制作当初のものを取りだすことが
「創」なのだと説明した。

しかし、それには「傷」をもってこれを新たな「創」として読み替えて
いく必要がある。

イアン・ハッキングが「偶然を飼いならす」において書いたように
世の中が確立統計で「危険の度合いを割りふる」ようになったとたん

人間社会は何もかもを「正常値」と「社会病理」に分けたがるように
なるか、そうでなければ「成長」と「停滞」あるいは「勝ち組」と

「負け組」に分け、かえって自分たちの首を締めるようになった。
「悲劇」や「自由」は「偶然なるものを徹底した必然」とみなせる。

悲劇と自由とは表裏一体のもので、津波襲来のときに、その町の
どこにいたかという僅かな差にも如実にあらわれる。

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