聖書の「清い」という言葉の存在故にユダヤ人は牛、羊を食す。

      2019/08/21

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聖徳太子1

割れたヒズメを持ち反芻する動物を古代イスラエル人
は食し、ぶた、ラクダは食べなかった。

水の中に住むものは、ヒレやウロコがないものは食べず
鳥の場合は正確な確認がとれてはいない生物です。

十九世紀の人々は、さまざまな未開人の宗教は全体として
世界の高度な宗教とはまったく異なった二つの特徴をもつと

考えていた。(未開人とは何であろう)
ひとつは未開人の宗教は恐怖に支配されている。

ふたつめは彼らの宗教が不浄や衛生法と分かちがたく混同
されているということである。

どのような宣教師や旅行者の記録もほとんど例外なく、原始的
宗教の帰依者を囲堯している不安、恐怖、畏怖といったものに

ついて語っている。
それらの源泉を辿れば、禁じられた一線を不注意にも横切った

人々や不浄な状況を生んだ人々には、怖るべき不幸が降りかかる
と信じていることに立ちいたるであろう。

さらに恐怖は理性の作用を麻痺させるが故に、それは未開人の
思考におけるさまざまな特徴を(特に汚穢れの観念)説明しえる

と考えることも可能なのである。
不浄それ自体はほとんど表象とはいえないし、表象は思考を拒絶

する独特の恐怖に埋もれてしまう。
15世紀にやって来たフランシスコ・ザビエルの時も日本人の感覚

はこのようなものであったのだろうか。
答えは「主」と「天国」にある。

不浄が宗教的性格を有していること、あるいは少なくとも超自然的な
ものにかかわっていることは、否定できないであろう。

イスラエル人の古い伝統が、ぶたとは人間にとって危険な食物である
という知識を含んでいたことは十分考えられるであろう。

しかしレビ記においては、豚肉を禁じる理由としてその種のことは
あげていない。

無秩序が型式を破壊することは当然であるが、他面では形式の素材を
提供する。

秩序は制約を意味している。
社会という観念は強力なイメージを保有する。

社会は内在する権利によって人々を支配し、彼らを行動に走らせる
能力を有する。

私たちが生きていくということは、社会の権利ではなく我々自身の
権利人権を守り通さねばならない。

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