嘉永六年(1853年)ペリーが浦賀に来航して幕末は始まった。

      2019/08/14

DSC06798

DSC06689

「八月十五日の変」を経て、池田屋事件が起きますが長州藩は
蛤御門の変を経験しても死んだふりをして勝と竜馬と西郷が動く

のを待ち、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎らが戻ってきた
慶応二年(1866年)に薩長同盟を結びます。

長州藩というものは運を持った藩であり、何回もの危機をくぐり
抜けて幕末の主役になります。

勝海舟と西郷隆盛の会談までは薩摩が前面に出ているが、それ
以降は明治維新まで長州が日本を動かしていったのである。

ここまでと違う話は土佐藩の二人の人物の動きです。
土佐藩脱藩浪士中岡慎太郎と土方久元である。

土方は三条実美(さねとみ)の側近で、勝海舟とは面識はないが
時代の動きをじっと眺める中で、この国を今の混乱のままにして

おいたのでは西欧列強の侵略主義に抵抗ができない、やがて
植民地化される危険性が大いにあると考えていた。

この際二大雄藩の薩摩と長州を結びつけて新しい国つくりをした
方がいいのではと相談を始めた。

二人はともに大変な攘夷論者であり、かつ倒幕論者であった。
後に中岡慎太郎は京都の近江屋で坂本龍馬とともに刺客に

斬られて命を落とすのだが。
竜馬はその時、倒幕ではなく幕府も入れた共和政治で国を運営

していったほうがいいという論に変わっていたが、中岡慎太郎
は倒幕論を変えることはなかった。

そもそも長州と薩摩は関ヶ原の戦い以来、徳川幕府に怨念を持ち
続けていた。

中岡慎太郎が桂小五郎は胆あり識あり、思慮が深く、耐えること
もできる人物、高杉は識あり略あり、変に惑わず、機を見て動き

覇気をもって人を動かすことができる人だと評しました。
歴史というものは、必要なときに人材が奇跡的に現れるものだ。

太平洋戦争終戦時の総理大臣鈴木貫太郎は慶應三年(1867年)
十二月二十四日生れで、玉音放送を作ったのは78歳のときである。

 - 歴史