江戸は400年前の「葦の原」「浜辺」から、如何に変貌したか。
2019/07/18
太田道灌が江戸城を築城したのは1457年のことである。
以来562年の年月が経った。
現在、下道灌掘りが太田道灌時代の江戸城の面影を
残している。
戦前に三田村鴛魚は「江戸学」という分野を開拓して
その後の江戸研究の基礎を築いた。
しかし、仏教神道は研究したが意外と人間の死体の葬り方を
含めた葬制、墓制の分野には手をふれていない。
江戸時代には火葬がさかんに行われた。
しかし明治政府は1872年6月28日に、自葬を禁止し葬儀は
必ず神官、僧侶に依頼することを命じた。
翌年7月13日の「盆の入り」には。現在も存在する青山、渋谷
に神葬地を定め、11月28日には雑司ヶ谷、駒込にも神葬地を
追加した。
それでも足りずに、1874年には染井、谷中、小塚原、深川
亀戸に共同墓地を設置した。
しかし1875年に明治政府は火葬禁止を解禁した。
火葬場も作られた。
1590年徳川家康は太田道灌の作った江戸城に入った。
江戸時代は身分別制度であったから、それぞれの身分階層ごと
に寺院が必要であった。
将軍と大名、幕臣の中の旗本と家人など、生前の格に応じた
葬制と墓制が、死者の属する宗旨宗派ごとに形成された。
町人の場合も同様である。
明暦三年(1657)正月、本郷丸山にあった日蓮宗京都本禅寺末
徳栄山本妙寺から出た火事は、二日以上燃え続け江戸城をはじめ
大名屋敷の大半を焼き、町人町も全焼させる大火となった。
この火事の焼死者は十三万二千百人余であり、回向院に埋葬された。
ちなみに266年後の関東大震災の死者は五万八千百四人であった。
さらに1945年の東京大空襲の三月十日の死者は推定10万人である。
明暦の大火の別名は「振袖火事」である。
命名の由来は、火元の本妙寺の檀家の一人が、娘の婚礼用の振袖を
古着屋で買ったが、この娘は式の前に急死した。
葬式を出したが、その振袖は湯灌場で業者にぬがされて、また古着
市場に出回った。
それとは知らず、もう一人の檀家の親が、これも娘の婚礼衣装として
別の古着屋から買いこんだが、この娘も式の直前に亡くなった。
因果なことで、三度目も親が娘に古着屋から買いこんだ振袖をいざ
着せようとして娘が急死した。
三度目となれば、さすがに本妙寺の僧侶もこの同じ振袖に気がついて
以後の祟りを絶つために焼却処分を勧めたのだが、火をつけた途端
妖風にわかに巻き起こり、本堂に燃え移ったのが原因で、江戸中が
焼野原になったという話である。
日本橋に富沢町という町が今でも存在する。
ここに江戸初期、富沢甚内という強盗の親分がいた。
運が尽きて処刑される彼の人柄を見た家康は、罪を許すかわりに
彼の子分が稼いできた盗品の繊維製品や衣料を、市場で流通させる
業務の責任者にさせ、流通の改善に尽くさせた。
富沢町は古着街であったが、震災後は岩本町に移転した。