710年平城京が始まる100年前、推古天皇時代に事件は起きた。

      2019/05/20

DSC05253

DSC07890

推古36年(628)3月死の床にあった推古天皇は、枕元に
田村皇子(のちの舒明天皇)を呼んで、つつしみをもって

軽々しい発言をしてはなりません、と伝えもう一人
山背大兄王に、あなたは未熟だから群臣の言葉に従いなさい

と話して、この世を去った。
9月葬儀が終わると、蘇我蝦夷は一人で皇位継承者を決めよう

と思ったが、群臣が従わないと困るので会議を行った。
山背大兄王にとっては蘇我蝦夷は叔父である。

しかし蘇我蝦夷は山背大兄王を支持しなかった。
山背大兄王を推薦した境部摩理勢を蘇我蝦夷は自害させた。

こうして田村皇子が即位し舒明天皇となる。
さらに舒明天皇が崩御(641年)し、皇極女帝の即位ののちも

山背大兄王は皇位に固執した。
皇極女帝期の蘇我蝦夷は専横をきわめた。

蘇我入鹿は山背大兄王を殺害し、聖徳太子一族は滅亡した。
皇極4年(645)の乙巳の変の蘇我入鹿暗殺の大義名分になる。

聖徳太子や山背大兄王は、蘇我蝦夷や蘇我入鹿ら蘇我本宗家
が改革派だったことをもみ消すために作られた虚像説がある。

後に蘇我氏を滅ぼしたのは中大兄皇子と中臣鎌足である。
大化の改新(645年)である。

中臣鎌足という人間は両親も出自も不明な人物である。
歴史は不思議なことをやってしまう。

中大兄皇子は皇極女帝と舒明天皇の子である。
そして大化の改新で中大兄皇子は天智天皇となる。

額田王は天智天皇の妻であったことがある。
持統天皇は天智天皇の子である。

この辺から聖武天皇までの歴史は飛びぬけて面白い。

 - 歴史