「自己の終焉」の恐怖を忘却する為には宗教以外に哲学がある。
2019/04/27

吉田兼好は人間世界の無常を、人間であることの運命
として受け止め「この世は無情であるから趣きがある」
と言っている。
哲学的には存在とは、生きている時だけが人間である。
自己の終焉を納得する努力は、納得した時には自信は「無」
になってしまうので、徒労である。
人間は再生しつつ生きている。
部分の死が全体を保存する。
「人間の細胞は脳神経系の細胞を除いて、すべてが約7年で
死んで入れ替わる」と言われる。
寺山修司が亡くなったのは1983年5月4日であった。
彼の詩集に「田園に死す」があります。
「わが塀に冬蝶の屍をはりつけて捨子家系の紋とすべし」
「死の日よりさかさに時をきざみつつつひに今には至らぬ時計」
西行の辞世の句
「願わくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」
西行はこの句を死の七ヵ月前につくりました。
とても櫻の花の咲くときまで西行はもたないと思われたが春に死んだ。
それが見事だと藤原定家がこの歌を新古今和歌集に取り入れました。
辞世の句で一躍西行は有名になったのです。
エリザベス・キューブラ―・ロスに「死ぬ瞬間」という著書がある。
「死の否認ができなくなった人は、死に挑戦し、それを克服しようとする。
死後の生ーこれ自体も死の否認だがーを本気で信じている人もほとんど
いなくなった。死後の生を期待できないとなれば、死について考え
直さなければいけない。天国で苦しみが報われないのなら、苦しむこと
自体に意味がなくなる。」
66歳のとき宗左近さんは「私の死生観」を書いた。
「美を生きるほかない私にある日の夜、虹が見えた・・・死者が生者
を鎮魂する独自の幸福論」である。
神がかった世界だ。