チンギス・ハーンのサラディン追放1244年~1291年

      2019/01/15

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タタールと呼ばれるモンゴルに東から、フランクに西から
攻められ、ムスリムがこれほどの危機的状況に置かれた

ことはかってない。
ただ神のみが救いをもたらすことができるだろう。
イブン・アル・アシール

モンゴルの征服者の興隆はサラディンの死の直後始まったが
アラブがその脅威の接近を身に感じたのは、やっと四半世紀

後のことである。
チンギス・ハーンはまず、中央アジアのトルコ系、モンゴル系

の諸部族を自己の権力下にまとめ上げることにつとめ、それから
世界の制服に乗り出した。

征服は三方向をめざす。
東では、中国帝国が隷属化し次いで併合される。

北西では、ロシアと東ヨーロッパが次々と荒廃する。
西ではイランが侵略される。

「都市という都市は徹底的に破壊しなければならぬ」
とチンギス・ハーンは言った。

世界全体が広大な草原に戻って、モンゴルの母親たちが自由で
幸せな幼子たちに乳をやることができるために。

事実、サマルカンド、ヘラートなどの由緒ある都市は破壊され
住民は圧殺されることになる。

イスラム世界に対するモンゴルの最初の進出は、フランクの
1218年から21年にかけてのエジプト侵略と時期を同じくする。

アラブ世界は二つの火災に囲まれた形で侵略されたが、チンギス
・ハーンはイランの西まで冒険することは慎んだ。

12227年チンギス・ハーンが67歳で没するとともにアラブ世界
に対する草原の騎士たちの圧力はしばらくの間収まった。

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