「韻を踏む」文化、英語圏は14世紀、中国は8世紀、日本は?

      2018/11/29

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日本の音楽でも井上陽水の歌詞には多くの曲に
「韻」が踏まれている。

しかし英語の曲にはかなわないし、中国の李白、杜甫
以来の詩の世界は韻を踏むことがルールになっている。

韻律とは音声の問題でる。
詩が書き言葉の次元にとどまっているかぎり、明確には

姿を現わそうとしない。
詩を声に出して読んでみたとき、あるいは旋律をつけて

歌ってみたとき、はじめて露わとなる遊戯である。
とはいえ遊戯には遊戯の規則があり、それはそこまでも

真剣に正確になされなければならない。
ある詩行の末尾と別の詩行の末尾とを同じ音で揃える

という行為には、詩とは単に内容をメッセージとして
伝達すればよいという考えに対する、形式の側から異議

申し立てが感じられる。
意味内容の秩序とはまったく別個に、詩には詩に特有の

形式上の秩序というものが確固として存在しており
それを踏襲することが詩の根拠であるという考えのことだ。

この秩序は厳密ではあるが、同時に快楽に満ちている。
朗読をする声は、脚韻の部分に差しかかったとき、言葉が

純粋に音声表現の相において戯れていることを感じる。
韻律の悦びとは音を反復することの悦びであり、あえて

いうならば、そこには微かにではあるが、魔術的な気配が
窺われる。

九鬼周造に韻律論がある。
九鬼は生涯を通して偶然性と遊戯という主題に拘泥したが

押韻の問題はその文学的表れであり、彼の形而上学的信念
と密接に結びついている。

九鬼は「脚韻」とは、言葉の運の純粋な体系というヴァレリー
の警句を引用する。

それは精神を束縛する快い拘束であり
哲学的な美の現れである。

この世界からはラップは千万光年のかなたにある。

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