秀忠は家康の三男で1579年生れ、将軍になったのは1605年。

      2018/11/27

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秀忠の長男は竹千代で、乳母は春日局ことお福である。
母親のお江は春日局に竹千代を独占されたので次男の

国松をかわいがった。
しかし家康の裁定で将軍になったのは竹千代である。

会津藩の初代藩主は保科正之である。
歴史上この人物が藩の決まりを徳川家に絶体仕えること

として作ったために、250年後戊辰戦争で薩長に酷い目に
あうことになる。

秀忠の妻お江はやきもち焼きの女性であった。
その秀忠が唯一お江以外の女性に子供を産ませたのは

お静という女性で、1611年に幸松丸という男児を生んだ。
長く認知されなかったが、7歳のときに信濃高遠の城主

保科正光の養子になった。
21歳で正光のあとを継ぎ保科正之と名乗った。

三代将軍の家光は正之の人となりを知っており、会津23
万石を与えた。

秀忠は1623年に家光に将軍職を譲った。
家光がまず行ったのは弟の忠長を改易して高崎に幽閉し

翌年自刃に追い込んだ。
忠長とは幼名国松のことである。

この国松は母のお江が亡くなったころから乱行を始め
正体を現したので秀忠も扱いに苦労したのである。

同じころ肥後の熊本藩主で加藤清正の子、忠広が改易
されている。

この後肥後には小倉から細川氏が入った。
数多くの粛清を行った家光であるが、日光東照宮を作った

のは家光である。
政務では1635年に武家諸法度を改定した。

残るは鎖国の完成である。
1637年に島原の乱が起き、1641年には出島において貿易が

可能なのはオランダ人と明のみとなった。

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