ある感覚をずっと保つ一貫性もその人の思想的達成である。
2018/10/30
「人間のあらゆる文化は移民の文化である。
あらゆる文学は移民の文学である」と翁久允という人が言った。
あらゆる言語はそんな風にある時、合成されたもので
一つが固まったままずっといられるわけではない。
もともと言葉というものに敏感な人ほど外国語を操ろうと
した時苦労するけれども、最終的には自分の母語を巧みに
操れる人は外国語も巧みである。
鈴木大拙も岡倉天心も見事な英語を書いた。
ジョン万次郎はアメリカで教育を受けて日本に帰ってきた
時彼の日本語は方言だった。
寺山修司も彼を動かしていたのは方言である。
寺山は津軽弁を「金を借りる時に都合がいい、自分の
身の上話をするのに都合がいい言葉」だと言った。
寺山はモダニストにはなりたくなかった。
志賀直哉がバーナードリーチに付いて、「リーチの
日本語はとても語彙が少ない。しかし迫力がある」
と感じたらしい。
語彙の少ない志賀直哉は自信をもった。
表現が豊かなことは、語彙が多いか少ないか
ではない。
母親と息子の関係はダヴィデとゴリアテの関係だ。
母親と息子の関係は50年経っても変わらない。
道徳の原理は母親である。
それに背くのが私だ。
この二つが切り離されることは死ぬまでない。
ドナルドキーンが「戦後日本の影響を受けて
いない作家が出た」と言い。
「安部公房」だと言う。
安部公房の「砂の女」は能の型式である。
500年経つとその伝統を忘れた時に影響を受ける。