「俳句」と「短歌」の違いは下二句「七七」があるか、無いか。

      2019/04/08

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俳句は人間でいうと客観的で冷静で道化的精神、短歌は
主観的で自己陶酔型と見られる。

しかし、そのような見方はあるのかもしれないが、私と
しては「下二句」が短歌の場合、急ぐことのない言葉の

深みや意味合いの濃さを醸し出しているのではないかと
考えたいのだが。

俳句というものは17文字でブツンと切れたような印象を
受けてしまうのだが、如何でしょう。

正岡子規は「俳諧大要」において「俳句は文字の一部なり
文字は美術の一部なり」と言ったが、蕪村好きの子規らしい。

「鯛鮨や一門三十五六人」子規
松山は鯛鮨が名物。1892年の作だが、子規は25歳、この年大悟した。

「朝顔や我に写生の心あり」子規
「青丹よし奈良の仏もうまけれど写生にますはあらじとぞ思ふ」子規

この歌は1899年の作で、自分の目で対象を見る写生は、個人に根拠
を置く近代的な発想になり、ここから蕪村の影響が大きくなる。

「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」杉田久女
「外にも出よ触るるばかりに春の月」中村汀女

子規は慶應3年1867年に生れ、明治35年1902年に亡くなります。
子規が短歌に取り組んだのは1898年から1902年までです。

「道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る」晶子
「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」牧水
「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや」牧水

「マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」寺山修司
「一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを」寺山修司

近代の詩歌としてほぼ同時期に再出発した短歌と俳句。
その両方を同時に作る作者は子規と修司だけである。

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