「詩と真実」という言葉に対し哲学は真実を解明できるのか。

      2018/10/06

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チェコの作家ミラン・クンデラは
「詩とはあらゆる断言が真実となる領域のことである。
 詩人は昨日、<生は涙のように空しい>と書き、今日は

 <生は笑いのように楽しい>と書くが、いずれの場合も
 彼が正しいのである。今日彼は<すべては沈黙のなかに  終わり没する>と言い、明日になると、<何事も終わらず  すべてが永久に響き渡る>と言うかもしれないが、その

 双方ともが本当なのである。詩人は何事も証明する必要
 はない。唯一の証明が感情の強さの中にあるのだから。

「抒情の真髄とは未経験の真髄のことである。」
と言いました。

「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」
石川啄木の「一握の砂」に歌われています。

心を空に吸われた十五歳だった青年啄木は、極小の存在とも
思えるし、空全体に広がる極大の存在ともいえる。

世界に向かう愛を信ずることが出来るならば、生きる力を
得ることができるが、信じられない私の孤独は深い。

ポール・ニザンの「アデン・アラビア」の冒頭の一節に
「ぼくは二十歳だった。それがひとの人生でいちばん美しい
 年齢だなどとだれにも言わせまい」とある。

この時ニザンは26歳。瑞々しい思い出としてある青春を
見事に表現しているが、啄木の15歳の方が少し若さが出る。

青年は自分をもてあましつつ青春を生きるほかない。
そうすることが、時代に希望をもたらす。

一人ぽっちの男、というと詩的だが、一人ぽっちの女は
小説の世界になる。

私がひとり旅を好むのは、社会から隔絶されることが
快感であるから。

孤独は、楽しみのみなもとになる。
旅から帰ったときにそれは確認できる。

「魂のみなもとへ」谷川俊太郎、長谷川宏著参照

 

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