人間は存在により色々な「疑問」を持つ。解決には行動する事。
2018/05/27
唐代末778年に生れ、120歳まで生きた趙州は90年前の禅師「馬祖道一」
門下の一人です。
趙州の禅は否定禅学の線上にあります。
ある時、修行僧が行脚に出るため趙州のもとを去ろうとした時
以下のように教えました。
「仏有る処は住することを得ざれ。仏無き処は急ぎ走過せよ。
三千里外、人に逢うも挙すること莫かれ」と。
悟りを得てもそこにとどまるな、いわんや悟り無き処は急ぎ過ぎよと。
これは仏陀以来の仏教者の伝統です。
仏陀は執着から離れるように、法も捨てよ、いわんや非法をや。
趙州は次のように説法しています。
「至道無難、唯嫌捲択」(至道はなんのむずかしいことはない、ただ
分別を嫌うだけだ)というが、言葉で表現するとたちどころに分別に
なってしまう。しかし私は分別どころか悟りの立場にもない。
分別というものは、なんと悟りの境地をも超えています。
大切なのは、分別に執着しないことです。
悟った人は、どうなるのかという修行僧の質問に
趙州は「大いに修行することである」と、「和尚も修行しますか」に対し
「衣を着たり、ご飯を食べたりする」修行僧「それは、日常のことです」
趙州「おまえさん一つ言ってごらん。わしは毎日何をしているのか」
趙州はさらに、「兄弟たちよ、正しい人が邪しま(よこしま)な法を説けば
邪しまな法も正しいものになってしまう。しかし邪しまな人が正しい法を
説けば、正しい法も邪しまになってしまうのだ。
諸方では見がたく知り易いが、わしの処は見やすくて知りがたい」
この意味は、悟りやすいが究めにくい、と言っているようだ。
悟ったあとに、重心がおかれており、人間洞察の深さの問題です。
金の仏は金を鎔かす炉でとけてしまう。木の仏は火で燃えてしまう。
泥の仏は水にとけてしまう。真の仏は内に座っている。
菩提、涅槃、真如、仏性はすべて身体にまとった衣服のようなもの。
またこれを煩悩ともいう。
問いを発して問題にしなければ、煩悩はあり得ない。
「一生生じなければ、一切に問題はない」という。