「仏陀」は紀元前500年「達磨大師」はその1000年後に登場。

      2018/02/24

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仏教という言葉の響きと、「禅」という言葉の響きは異質であり
禅は宗教を超えた文化の一部として世界中で使われています。

しかし、禅とはこういうものだという概念的なものは、本来
ありえません。

それでは禅とはいったい何なのでしょう。
答えは禅僧として生きてきた人間が悟りを得ることです。

それでは悟りを得るまでの過程で生じる疑問とは、自分とは
何か、生きるとはいかなることか、という自分への問いです。

禅というものは、教科書を勉強すれば答えが得られるといった
ものではありません。

禅の師は、禅とは何かを問う弟子に対して、答えの代わりに「己を究明せよ」
せよと突き放し、相手が自分で真実を掴むようにさせます。

六祖慧能の門下に南岳懐譲(677年生れ)と青原行思という二人の門下に
よる法系は、中国禅宗の二代潮流となり、日本の臨済宗は南岳派の流れ

曹洞宗は青原派の末流で、今日まで受け継がれています。
これから書く「馬祖道一」という人は、その南岳懐譲の法を嗣いだ筆頭弟子です。

この馬祖道一が南岳懐譲の禅を継いで天下の大和尚になることは、南岳が
自分の師である六祖慧能からすでに聞いていたというのです。

馬祖が南岳から受けた禅の内容はどのような物だったのかを示す話が
南岳懐譲章に出ています。

720年頃伝法院にすんで座禅ばかりしている道一という僧を南岳懐譲が
訪ねていって、「貴僧は座禅ばかりしてどういうつもりか」と訊ねた。

道一「仏になろうと思います」と答えると、南岳は一枚の瓦を持ってきて
ゴシゴシ磨き始めた。道一「瓦を磨いてどうなさる」南岳「鏡を作る」

道一「瓦がどうして鏡になりましょうか」南岳「瓦を磨いて鏡にならぬのに
どうして座禅して仏になれようか」道一「ではどうしたらよいだろうか」

南岳「もし座禅をしたいのなら、禅は座ると言うことではない。仏に
なりたいのなら、禅は形ではない。無住に住して取捨をしないことだ。

座禅など仏を殺すだけだ。姿に囚われていては、禅は分かるまい」
道一は南岳のお示しを聞いて、醍醐味を覚えた。

道一は「馬祖語録」に仏道は修行して得る必要はない。ただ煩悩の
汚れに染まってはならない。迷いの心が汚れだ。

「道」というものをはっきりと手に入れたいのならば
「平常心そのものが道である」

平常心とは「無造作」(ことさらな行いをしない)「無是非」
(価値判断をしない)「無取捨」(選り好みをしない)

「無断常」(有るなしに偏らない)であれということだ。

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