「詩とはあらゆる断言が真実となる領域だ」ミラン・クンデラ

      2018/02/13

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詩人は昨日「生は涙のように空しい」と書き、今日は
「生は笑いのように楽しい」と書くが、いずれの場合も

詩人が正しいのです。
彼は「すべては沈黙のなかに終わり没する」と言い

明日になると、「何事も終わらず、すべてが永久に響き渡る」
と言うかもしれないが、双方とも本当である。

その証明は感情の強さの中にあり、抒情の真髄とは未経験の
真髄のことです。

世界と私
「私と世界、世界と私、私が世界に包まれる。世界が私に包まれる。
また、世界と私がむきあう。向こう側に世界があり、こちら側に
私があって、その二つの関係が問題になる。」

事の起こりは西洋近代哲学の父ルネ・デカルトによる近代的自我の
発見にあった。

「我思う、ゆえに我あり」と表現した。
近代的自我はみずからの足で立とうとする。

しかし、世界がなくては私は私の足で立つことができない。
私の足元には世界があり、私の前にも私の後ろにも世界がある。

では、私はどこにあるのか。
世界の中に?

それとも世界のこちら側に?
近代的自我はその存在自体が確固たるものとは言えません。

少なくとも私は私だけで世界を作ることはできない。
私とはちがう世界があって、それとの関係の中で私はある。

あるのは世界と私。
そして二つのものの関係。

しかしその関係は二つのものが空間的に接していることではない。
私が大きくなれば世界は小さくなり、私が小さくなれば世界が

大きくなる、そんな関係ではありません。
私が世界と重なったり、世界の中に溶けこんだり、反対に

世界が私の中に入りこんだする、そんな関係です。
関係の中で私の存在は大きくも小さくも感じられるが

その大小は空間的な大小とは違います。
大きい私に充実感を持ち、小さい私に寂寥感を持つとは限りません。

石川啄木の「一握の砂」のなかにある和歌です。
「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」

心を空に吸われた三十一文字に青春の充実感と寂寥感が横溢している。
青年、啄木の私は大きいのか小さいのか。

世界から私にやってくる愛を信じられるか、信じることができないかは
孤独に耐えて、それが解るまで待つしかはない。
「魂のみなもとへ」谷川俊太郎、長谷川宏著参照

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