織田信長の登場を画策した、「応仁の乱」の分かり難さと意義。

      2017/11/14

DSC06083

DSC05763

京都の人は戦争による争乱とは「応仁の乱」だと思っているようだ。
応仁の乱は1467年から、多くの大名が東西両軍に分かれ市街戦を行った。

将軍は足利義政であったが実力者は細川勝元と山名宗全であり、この
二人の対立が将軍後継者問題や大名の家督争いに絡んで11年続いた。

将軍後継者問題というのは義政に息子がいなかったため弟の義視を後継に
しようとしたが、直後に妻の日野富子が義尚を出産したため騒動となる。

しかし日本という国はここまで時代背景は中世であり、応仁の乱が
その姿を打ち破り近世という新しい環境を作ったことで織田信長が現れた。

つまり「下剋上」最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊し、新しい時代を
作ろうとした。

応仁の乱が1477年に終わって、57年経った1534年6月23日に織田信長は
生れた。

秀吉や家康もそうだが、信長は応仁の乱以前の古いタイプの大名から変身
した最初の新しい思想を持った大名であった。

最大の戦闘の特色は鉄砲を使ったことです。
宇治川の先陣に始まり楠木正成まで日本の戦闘は大将の戦でした。

応仁の乱で大名は京都の町をすべて破壊しましたが、信長が破壊したものは
強大な力を持っていた比叡山の僧兵でした。

信長26歳の時1560年に「桶狭間の戦い」で今川義元を滅亡させ、1575年
には「長篠の戦い」で武田勝頼を破りました。

しかし1582年部下である明智光秀により「本能寺の変」であえなく自害
したわけです。

48歳でした。
信長が言ったとおり人生50年です。

そして時代は最後に徳川家康が天下をとり江戸幕府を開き平安な世の中
が登場するわけです。

応仁の乱の戦乱による時代の破壊は大きな意義がありました。

 - 歴史